本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉓)
奉公衆明智氏の存在は、三つの番帳の中で確認することができます。
智中務少輔の名が記されています。
かりますが、光秀の系図には疑問点が多く、光秀がこのながれに連な
る者である、と断定できる根拠は存在しません。
官名としています。(光秀の出自と前半生⑤)
とおもわれますが、ある時期から土岐氏の支配を離れ、奉公衆として
幕府内に組み込まれたのでしょう。
ますが確たるものではありません。
光秀が、崩壊した幕府の行政機構である政所に属する奉行衆、又将軍
側近の軍事集団である奉公衆を、統括できたのは、彼の前半生がそれ
らと密接に関係していたと容易に想像できますが、すべては闇の世界に
葬り去られています。
斉藤利三同様、光秀自身が奉公衆であったと確認できる史料は、永禄
六年諸役人附に記された、明智という名前しかありませんが、これが
光秀自身を指すと断定できません。(明智資料⑤)