惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉓)

 
 
 
 

奉公衆明智氏の存在は、三つの番帳の中で確認することができます。

文安番帳の中で、明智中務少輔が、長享番帳の中では、明智兵庫介
明智左馬助政宣の両名が、そして東山番帳の中に明智兵庫頭、明
智中務少輔の名が記されています。

明智氏が、奉公衆として、石谷氏同様、将軍に近侍していたことがわ
かりますが、光秀の系図には疑問点が多く、光秀がこのながれに連な
る者である、と断定できる根拠は存在しません。

明智家の祖は、土岐明智頼重であり、その子孫は兵庫守、兵庫介を
官名としています。(光秀の出自と前半生⑤)

このながれは、土岐氏嫡流家と行動をともにしており、在京していた
とおもわれますが、ある時期から土岐氏の支配を離れ、奉公衆として
幕府内に組み込まれたのでしょう。

明智頼重の孫にあたる明智兵庫守頼高あたりから、在京明智氏と美
濃在住の明智氏とに分流したと考えると、一部系図の整合性が得られ
ますが確たるものではありません。

光秀が、崩壊した幕府の行政機構である政所に属する奉行衆、又将軍
側近の軍事集団である奉公衆を、統括できたのは、彼の前半生がそれ
らと密接に関係していたと容易に想像できますが、すべては闇の世界に
葬り去られています。

斉藤利三同様、光秀自身が奉公衆であったと確認できる史料は、永禄
六年諸役人附に記された、明智という名前しかありませんが、これが
光秀自身を指すと断定できません。(明智資料⑤)