明智資料㊿
望月華山氏編「時衆年表」内の、応永二十年(1413年)五月の項に
内においても、日常的に行われていたのかもしれません。
同書内、天文三年(1534年)一月の項には、
時衆聖派出身の宥雅第百八十二世高野山検校となるとあります。
検校とは寺院内事務方のトップの職名で、東大寺、東寺などにお
かれて、財政を統括しその権力が座主を上回ることもありました。
時衆が真言宗寺院内で大きな力を持っていたことがわかり、天台
宗延暦寺内でも、その末寺には多くの時衆が存在し寺務の運営に
携わっていました。(奉行衆・奉公衆㊱)
現在の感覚からは考えにくいことですが、当時は密教寺院内に、鎌
倉仏教(顕教)の僧が同居していました。
これは、黒田俊雄氏が提唱する顕密体制理論により説明できるの
ですがここでは述べません。
光秀が時衆と深く関った人物であることはすでに述べています。織田
え、京都七条磧外三ヶ所において処刑しました。
処刑者数の実数は各資料によりばらつきがあり、その原因も荒木村
重一党を高野山が匿っていたとの説が有力ですが、その対象がなぜ
時衆系の僧侶あるいは、半僧半俗の聖を含むものであったかは確と
しません。
とこの事件に光秀はどのような感想を持ったのでしょうか。
(続濃州余談④)
本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊷)
美濃國立政寺は、智通上人により開山され、永禄年間、美濃にお
ける時衆寺院の中心として、末寺を多く抱える大寺院でした。
永禄十一年(1568年)、還俗した足利義昭は立政寺に対し、禁制を
発し、寺門前に掲げます。
一、軍勢甲乙人等亂入狼籍事、
一、陣取寄宿事、
一、伐採竹木事、
右條條、堅被停止之訖、若有違犯之輩。速可被處厳科之由、
所被仰下也、仍下知如件。
永禄十一年九月六日
散位平朝臣(花押)
左兵衛尉神(花押)
発給者である両名は、幕府奉行人の松田秀雄と諏訪俊郷で、義
昭に同行して美濃まで来ていました。
立政寺で義昭は、織田信長と面会し、上洛戦が開始されるのです
が、立政寺が時衆寺院であり、義昭陣営が禁制を発給しているこ
とから、これら一連の会見への道程が、足利義昭側の時衆関係者
きます。
これより四日後、義昭は洛中阿弥陀寺、清玉上人に対し、以下の
文書を発給しています。
阿弥陀寺敷地事、以方々寄進、建立寺家云々、早仁当地行
之旨、弥進止之、可被専勤行之由、所被仰下也、仍執達如件
永禄十一年九月十日
丹後守(松田藤弘)花押
備前守(中沢光俊)花押
清玉上人
信長上洛以前に、幕府奉行人から都の時衆寺院に、優遇策がなさ
れるのは、時衆のネットワークとその関係者が信長と義昭の和合に
大きく貢献したということかもしれません。(奉行衆・奉公衆㊶)
明智資料㊽
元弘三年(1333年)五月、南朝方の赤松円心らの軍勢がせまる中、六
い、鎌倉への避難をはじめました。
近江の国に入ると、探題南方北条時益は野伏の攻撃に会い戦死し、
仲時らも行く手を阻まれ、進退窮まって番場にある蓮華寺に入り、一
族郎党四百三十余名とともに自刃しました。
太平記にはその時の様子が詳しく記されています。
が、当時時衆の大寺院であったことに関係があると思われます。
時衆は戦場において、医療技術者の役目を負うのみではなく、死に行く
者に十念を授け、又死体の埋葬業務も担当していました。
蓮花寺には、陸波羅南北過去帳が残っており、当寺で自刃した武将の
名前が記されています。これは自刃が整然と行われたことを証明し、こ
の寺が、自らの骸を適切に処理し、供養されると北条一門らが認識して
いたことがわかります。
武士の一人一人が名前を述べ、時衆がそれを記した後、自刃していっ
たのでしょう。死体を忌み嫌う、当時の風習とは異なった集団自決が蓮
華寺で行われたことが理解できます。
彼らの死体は、時の住職同阿のもと埋葬されたと伝えられ、現在も墓石
が残ります。
本能寺で光秀に討たれた信長や森乱の骸は、時衆蓮台山阿弥陀寺の
僧清玉により、火葬ののち阿弥陀寺に埋葬されたと同寺古記録に残さ
れています。
阿弥陀寺は秀吉からの寄進を断り、秀吉の怒りを買い、廃寺に追い込
まれますが、同阿、清玉ともに時衆の潔さを感じ取ることができます。
信長は本能寺で爆死し、その骸は霧散したとのことですが、光秀が時衆
阿弥陀寺住職清玉に、本能寺で戦死した織田方の骸の処理、供養を依
頼したとも考えられます。
これを証明する一次史料はありませんが、こう考えた方が何か整合性が
あるように思われます。
本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊶)
遊行十一代自空上人は、尾張萱津光明寺住職を経て、康暦三年(1381年)
、尾道常称寺にて、遊行を唯阿上人より相続しました。
自空は、戦場での時衆の活動について、掟を定め、その第一項にこう述べ
ています。
時衆が、武士に同伴して戦場に赴くのは、死者に十念を与える為であり、時
衆が、戦場において、敵味方の区別なく自由往来できるからといって、戦闘
に関する使い等を行ってはいけない。
しかし、実際には時衆は、同伴する武将の要求に応じて、相手方との連絡や
時には情報収集の役をはたしていました。
敵味方相互に時衆が従軍しており、戦死した武将の首級を返還する役目等
の為、彼らは戦場を自由に行き来し、敵方の領地にも赴きました。
一遍以来の遊行の伝統や、時衆の持つ性格、あるいは武士に時衆の信者
が多かった等の理由がそれを可能にしていました。
平時においても、こういった時衆の活動は、敵対する武将間の連絡に生かさ
れる事があり、領国間を比較的自由に往来し、宗教活動の他に連絡係として
の役目をはたしていました。
各上人の、全国への遊行の伝統が、それを可能にしていたとも言えるのです
が、将軍足利義持はその御教書にみられるように、時衆の領国間の移動を
円滑に行うよう、領国主に指示しています。
又、信長も、時衆が織田分国内を修行の為自由移動する事を許可しており、
戦国時代においても、時衆が、敵対する領国間を比較的自由に通行して、連
絡係りをしていたと推測できます。
光秀が、時衆となんらかの関係があるとすでに述べていますが、織田氏と足
利義昭とが接触する初期の段階から、光秀が時衆の持つ、ネットワークをい
かして、相互の連絡を、義昭側近の細川藤孝を介し、織田側と行っていたと
考えられます。(奉行衆・奉公衆㉞)
本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊵)
「遊行三十一祖京畿御修業記」は、遊行三十一代同念の、天正六年
(1578年)七月から、同八年三月までの遊行の記録です。
伊豆より海路伊勢に入り、尾張、美濃、近江、都、大和を巡教し、それ
以前は、駿府で活動していました。
通行の自由を許可されています。
同年七月、同念は美濃入国後、岐阜城に信忠を訪ね、その後、垂井金
蓮寺にいた同念を、信長は安土城に招待しています。
しかし荒木村重の謀反により、信長との面会は中止となりましたが、二
ヶ月後、京都で対面しました。(光秀戦闘史㊻)
での円滑な遊行を依頼します。
光秀は、奈良を勢力圏に置く与力の筒井順慶にその旨を告げ、巡教の
手助けをしています。
梵阿と光秀は、光秀が越前称念寺の門前に寄寓していた時からの知り
合いである、と言われますが、確たる事は不明です。
又、その後光明寺は、秀吉により所領を没収されますが、これは光秀と
の関係性を疑われたとの説があります。
係を重視することは当然であり、光秀を始め、時衆と何らかの関係性を
持つ、家康、秀吉、細川藤孝らとの交流がみられます。
皇を参内し十念を授けました。
一遍以来の、弱者に寄り添う時衆の姿勢が、大きく変化していることが
わかります。
本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊴)
明智軍記内に以下の記述があります。
永禄八年、光秀は、越前長崎称念寺の園阿上人と、加賀山城温泉へ
湯治の旅に出ました。
この旅には、称念寺の時衆や小僧の定阿弥が付き添いました。光秀
は、僧侶に冗談を言ったり、即興で詩作したりで、楽しい旅を送ったと
あります。
三国湊で一泊した光秀らは、連歌興行を行います。そこに三国浦の漁
の距離を教示し、更に今度は、下関までの寄港地と、その距離を答え
て、光秀から褒美を与えられたとあります。
刀弥という人物は、名前から時衆関係者と推測できますが、一般人で
は知りえない地理情報を持っており、旅する時衆の片鱗を感じます。
光秀自身も、朝倉義景の家臣鳥居兵庫介に向かい、自身の経歴をこ
う述べたとあります。
弘治二年、美濃から、知り合いの僧がいた称念寺に移り、妻子を預け
を訪ね、将軍義輝の様子を見て、和泉の三好、備前の宇喜多、出雲
の尼子、安芸の毛利らを訪ねたとあります。その後、薩摩の島津、土
佐の長宗我部を経て、海路で伊勢神宮に到着し、伊勢の北畠、長野
の館をみて、越前に六年ぶりに帰ったとあります。
くだりもあり、江戸時代の歴史マニアを対象とした、教養軍記書の傾向
を強くにじませています。
江戸の庶民は、こういった書籍から教養を得ていたのでしょう。光秀が称
念寺門前に住んでいたことを記述した書物は、他に時衆三十一代同念上
人の遊行記があり、時衆関係の史料のなかに、当時の光秀の足跡が見
られます。
本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊳)
里村紹巴は、連歌を通じて、光秀と極めて親密な関係にありました。光秀
が、紹巴にあてた手紙の中にも、その絆の堅さを垣間見ることができ、紹
巴は、愛宕百韻開催時、光秀の信長謀殺を知りえる人物でした。
(光秀と朝廷・公家社会⑨)(続濃州余談⑤)
紹巴は、時衆一花堂乗阿等と交流が深く、彼の子孫からは、遊行四十八
代賦国が出ており、紹巴自身が時衆であった可能性があります。
おり、時衆と紹巴の関係の深さを知ることができます。
性の中に、時衆が色濃く関っていたことが推測できます。
に光秀が時衆と結びつく、原点があったのでは、と考えていくと、光秀が越
前称念寺門前で過ごした、不遇時代が理解できます。すなわち光秀が時
衆のルートで、美濃から越前へ逃避したということですが、年代的な裏付
けが全く存在しません。(四人の天下人⑭)
いずれにせよ、愛宕百韻開催時、紹巴の参加のみではなく、そこに戦勝祈
願や家名存続を、嫡男光慶とともに祈願する、宗教的側面を、連歌の中に
光秀が内包したことは、彼と時衆との関係性を深く感じます。
越前入国の、一年前には存在していたことが、確認できます。 この時点で
の、光秀と織田氏との接点等を、時衆が持つ布教活動の特性から、見てい
こうと思います。(奉行衆・奉公衆㉜㉞)