惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㊳)

 
 

「多聞院日記」には


十四日、日中マテ大雨下、打續降雨、希代也

とあり、十四日お昼まで大雨で、このように雨が続くことは珍しいと記されて
います。

「兼見卿記」の十三日の記述には

十三日 己亥 雨降 申刻至山崎表鐵放之音数刻不止

とあり、降雨の中、午後四時頃から山崎表方面で、鉄砲戦の轟音が数時間
続いた、と述べられています。十二日の記述にも、摂州から山崎表へ進出し
てきた、秀吉勢足軽との鉄砲による戦闘が記されており、銃火器による戦
闘が長期間にわたり展開されています。

梅雨も明けていないようで、大雨による影響もあり淀川は増水していたに違い
なく、悪条件の中、湿地帯に足をとられながら光秀、秀吉ともに戦機を探って
いたのでしょう。光秀軍の銃火器の充足率は、その錬度とともに高く、織田軍
随一でした。二条城に籠った織田信忠勢は千人を超していましたが、近衛邸
の屋根に登った光秀軍の銃手は、彼らを的確に射倒していることからもその
腕前の確かさがみてとれます。

山崎戦の全貌はよく判っていません。しかし淀城を補強し左翼の拠点として、
御坊塚に本陣をおいた光秀は、その背後にある勝龍寺城を補給基地として、
円明寺川に沿って鉄砲隊を重層的に配置し、天王山と淀川に挟まれた隘路
を進んでくる羽柴勢に打撃を与える作戦をとったと思われます。

それが都の兼見邸まで届いた鉄砲戦の轟音であり、羽柴勢の進出を食い止
めていたのでしょう。山崎戦では、羽柴勢も相当数の犠牲をだしており、その
多くはこの戦闘時のものだと考えられます。

しかしさすが秀吉は軍事天才信長の一番弟子でした。夕暮れ近くになると夜
戦を嫌ったのか、羽柴勢からの右翼すなわち淀城側から、自ら加藤清正、福
島正則ら馬廻り衆ととともに猛攻を開始します。

左翼にある天王山付近でも、連動して羽柴勢の攻撃が開始され、それに反応
した明智勢と戦闘が開始されます。要するに明智勢の正面圧力を避けて、脇
から回り込んで切り崩す作戦にでました。

この時の秀吉の奮闘ぶりはすざまじく、ゴロツキ連中のかたまりである秀吉軍
の前に、数に劣る光秀軍はその野戦接近戦での経験不足もあったのか、斉
藤利三隊の奮闘もありましたが打ち破られます。

光秀としては、布陣ともに最良の策だったのですが、白兵戦になれば、中川清
秀、高山右近をはじめ戦上手が揃った羽柴勢の敵ではありませんでした。


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