惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㊲)



天正十年六月九日(新暦七月八日)、吉田兼見の屋敷で光秀から、天皇

誠仁親王に進上された銀子五百枚を持って、日没後兼見はまず勧修寺晴
豊宅を訪れ、一緒に御所へ向かい、献金について長橋御局に報告します。

その後誠仁親王と対面し、委細を申し入れ女房奉書を受領します。
 
信長と親密であった誠仁親王としては、まず光秀の気をひくことが最優先課
題でした。兼見はその足で光秀の陣所がある下鳥羽へ向かいます。

親王からの銀子の御礼を述べ、奉書を光秀にみせます。光秀からは親王
、綸旨の内容をありがたく承知した旨伝えることを託されます。

これは別本内の記述ですが、これが正確な事実経過なのでしょう。

親王と光秀のこの時点での関係性がよくわかります。翌十日になると光秀は
摂州を攻めますが、あまり成果がなく、十一日には下鳥羽に戻り、防御の為
に淀城を修築します。

十日の光秀の行動は、「兼見卿記」「多聞院日記」では、摂州攻撃と記され、
「蓮成院記録」「細川忠興軍功記」では洞ケ峠出陣が述べられています。

「軍功記」内では、光秀が攝津在陣の織田信孝を討ち果たす為、洞ケ峠で
筒井順慶軍の参陣を一日ほど待つたとあります。

これが後世いわれる順慶の日和見説話の原型となっていくのですが、光秀
は単独で摂津攻撃をすでに着手して、不首尾に終わったのが事実であり、
だからこそ淀城の守りを固くし、信孝軍の到来に備えたのでしょう。

十一日午前には、羽柴秀吉軍は尼ヶ崎に到達しており、兵力に不安のある
光秀は、摂津攻撃を中断し防衛線の構築に主眼を移しました。

光秀はなかなか防衛線を構築できず、円明寺川を前にして鉄砲隊を配備し
御坊塚に本陣を移した時には、既に天王山が中川清秀らにより占領されて
おり、十二日夜半には戦況は極めて不利な状態に陥っていました。


天王山
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