惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㊴)

 
 

勧修寺晴豊が記した「晴豊日記」には、本能寺の変後、都の多くの人々
が禁裏周辺に避難し小屋を作り生活していたとあります。

ノケ者数カキリナシ、コヤ共カケ、事他也

光秀は、都の治安を守ると表明し、税の免除を約しましたが、禁裏への
避難民は増え続けました。(光秀とその時代⑨)

光秀が、秀吉勢の到来を阻止する為に、下鳥羽に本陣を構えたことは
都が戦場になるとの不安感を更にまし、人々が帰宅を始めたのは、光
秀の敗死が伝えられた後のことでした。

都の人々は、光秀を新たなる為政者として看做していなかったのがわか
ります。

山崎での戦闘は、十三日の午後四時ぐらいからが激戦のピークで、袈
裟をまとい僧体となり、右翼から馬廻りとともに肉薄戦を敢行する秀吉
の前に光秀勢はあっけなく崩れました。秀吉はこう言っています。

光秀を滅ぼして信長の仇を報じ得たのは、一に懸かって秀吉一個の覚
悟にあり。

このあたりが、光秀が秀吉に敗れ去る理由であり、戦闘者光秀の限界
でした。泥まみれになり、すべてを賭けて戦いに臨む秀吉と、変後都で
連歌仲間と会食を楽しみ、連歌を興行する光秀の、切迫感のなさの
差でありました。

「兼見卿記」内の十三日の記述には

自五條口落武者数輩敗北之体也、白川一条寺邊落行躰也、或者討
捕、或者剥取云々

とあり、その日のうちに五條口に落武者が現れ、白川一条へ落ちてゆ
く様子であり、捕えられたり追いはぎにあったようだと述べています。

山崎戦が短時間で終結し、愛宕山から丹波にむけて、丹波に所領が
ある明智勢が逃げているのがわかります。

又兼見は
落人至此表不来一人、堅指門敷戸、於門内用心訖

と記述しており、兼見邸の近辺には落武者が一人も現れなかったこと
がわかります。

これは、明智秀慶が指揮する洛北武士団は、山崎戦には参加してお
らず、恐らくは都で治安維持にあたっていたことをうかがわせます。

明智秀慶は光秀の重要な家臣のなかでは珍しく、その後も生きながら
丹羽長秀の家臣に取り立てられます。(四人の天下人㉚)



勧修寺晴豊和歌
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