惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㊱)

 
 
 
 

都へ帰還した吉田兼見のもとに光秀から書状が届きます。前日八日に明智

先鋒は、山科、大津に陣を構えており、摂津侵攻に向けた進軍でした。

「兼見卿記」(別本)には

以自筆申夾了 とあり光秀の自筆書状が届いたとあります。関ヶ原戦前の、徳
川家康の様に自ら筆をとり、迅速で正確な連絡を図ったのでしょう。

光秀は、兼見邸を訪れることを告げます。兼見と摂家、清花、公家衆らは白川
まで出向き、光秀を出迎えます。光秀は恐らくは馬廻り衆を先行させ戦時ゆえ
迎礼を辞すことを伝え、兼見邸にはいります。光秀は兼見に

先度禁裏御使早々忝存 と先日の禁裏からの安土への御使いに対して感謝
の気持ちを述べています。同内容は正本では

一昨日自禁裏御使忝、為御礼上洛也  とあり、御使いの御礼の為の上洛で
あると、兼見個人に対しての謝意を表しています。

同時に光秀は兼見に、朝廷、五山への進献を依頼しています。このあたりはおも
しろいところなのですが、朝廷も吉田兼見という神官をいれて都の治安維持を光
秀に要請しており、又光秀も兼見を中に入れて朝廷へ献金しています。

これにより相互の意思疎通が、万全には機能していなかつたのがわかります。

兼見邸での一連の作業が終わると、光秀と兼見は小座敷で簡単な食事をとりま
す。その場には、紹巴、昌叱、心前ら三名の光秀の連歌仲間が同席していまし
た。光秀が上洛したのは午後二時ごろでしたから、夕飯だったのでしょう。

この三名が勝手に来るわけがなく、光秀か兼見が呼んだのでしょう。恐らくは光
秀が呼んだと思われます。記録には残ってはいませんが、この折連歌会が短時
間ながら催されたとするならば、光秀の連歌狂いには驚愕します。

私はこの時光秀は歌を詠んだと思っています。そこには本能寺襲撃の謎をとき
あかす貴重な一句が秘められていましたが、何者かにより闇の世界へ葬り去ら
れました。

光秀はその後下鳥羽に向かい出撃します。紹巴らはそれを路次に出て見送りま
すが、これが光秀と紹巴らとの最後の別れとなりました。