惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊶

 
 

天正六年十月二日、信長は南方への出陣の際、安土城において女房衆が、実鏡

院殿御外出をいいことに、豪遊したことを聞き怒り、帰城すると、女房さいと重伝
というものを切り捨てた、と「兼見卿記」内の記述にあります。

御成敗重傅、今度南方之御留守、実鏡院殿御外出、被置御留守女房衆各被
出泉水之邊遊覧、有御酒之儀、比段入御聞、以外之逆鱗也ーーーーーーーー
さいト云女房一人御成敗也

全く同じパターンの信長の行状は、「信長公記」の記述のなかにも見られ、信長
の留守中に、桑実寺参詣にでかけた女房衆を成敗しています。(光秀戦闘
史Ⅱ⑩、四人の天下人㊺、光秀とその時代⑮)

光秀の信長謀殺の原因の一つに、信長の残虐性に対する嫌悪感があることは、
十分推察できます。特に桑実寺事件に関しては、光秀正室煕子の妹と思われる
妻木が、何らかの処分の対象になり、命を落とした考えるならば、本能寺の変
後に、光秀が兼見に、信長に対する恨みを述べたことは理解できます。

「兼見卿記」の天正九年五月十六日の記述に、妻木に関するものがあります。

妻木依所労在京也、祓 とあり妻木がこの時期疲れか病気により都にいて兼見
から御祓いを受けたとあり、これが妻木に関する最後の記述になります。

日記の内容からは病気で死去した可能性が高いのですが、不慮の死亡説も捨て
きれません。

光秀は娘婿の細川忠興に対し、投降した敵方を、無闇に殺害するなと戒めてい
ます。(濃州余談⑱)