惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉔)

 
 
 

天正三年十一月七日、織田信長権大納言兼右大将に任官します。自ら陣座

を設える気合のいれようで、翌八日には、公家衆悉く、信長のもとを参賀に訪
れます。

信長は十四日に岐阜に帰り、その翌日に村井貞勝より、公家衆に新地を宛がう
旨申し出があります。

「兼見卿記」内には、吉田兼見は書類提出の不手際から、その選から漏れたと
の記載があり、無念之義也 と残念がっています。

天正四年十二月廿一日には、内大臣、午刻陣儀云々、諸家祇候云々 と
同日記内にあるように、信長は内大臣に陣儀をもって就任します。

信長は就任御礼の為禁裏を訪問し銀百枚を進上します。

信長は権大納言就任以来、朝廷業務に真面目に取り組んでおり、大乗院と東北
院とのもめごとに対する、伝奏勧修寺晴右、中山孝親ら四名の、対応に落度あ
りと彼らを叱責しています。

そして翌月には、彼ら四名を不行届きありとしてその職から罷免します。

天正五年七月には、信長は村井貞勝に命じて、禁裏の築地を修理させており、
自ら工事の進み具合を検分しています。そしてその足で天皇および誠任親王
越後布を献上しました。

天正五年十一月廿一日、信長は右大臣に任官します。翌天正六年一月には二十
年にわたり途絶えていた節会之儀が再興されます。これは当然信長の経済的援助
によるものでありました。

しかし信長と天皇・朝廷の蜜月関係はこのあたりまでで、信長のわがままが露呈
しはじめます。信長としては朝廷内での諸雑事が面倒になったのでしょう。あるい
は禁裏再興はなったとの感を持ったのでしょうか。

同年四月一日の兼見の日記にはこう記されています。

右府諸家有対面之儀之由、勧修寺・飛鳥井-------各不残出也、直垂
也、数刻相待、無対面、退出

信長は正装で対面に来た公卿衆に対し、数時間待たせたあげく、会うことがなかっ
たとあるように、信長本性丸出しの行為に出ます。

そして同月九日、兼見は、徳大寺公維の屋敷で、信長辞官を聞きます。

その奏達状の内容はすでに記しました。要約すれば天下統一戦に集中したいとい
うことですが、その申し出は突然でした。(光秀戦闘史Ⅱ⑤)

しかし、足利将軍家による朝廷軽視政策になれきった天皇・朝廷にとって、信長
は救世主以外の何者でもなかったことには疑いの余地がありません。