本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉕)
天正六年四月、織田信長は右大臣と右近衛大将の両官職を辞します。しかし、
正ニ位の位階は残したままであり、公卿の身分には変化がありませんでした。
に叙されており、官職を辞退することはなく、織田家全体での対朝廷政策の変
更はみうけられません。
奏達状にある
征伐之功未終之条、先欲辞一官ーーーーーー四海平均之時、重應登用
之勅命ーーーーーーーーー然者以顕職可令譲嫡男信忠之由
というのが、この時点での、信長の偽りのない本心であると思われます。
信長はこれ以上朝廷雑務にかかわることを嫌い、現代風に言えば、しばらく朝
廷との関係に距離をおこうとしたのでしょう。極論を言えば信長は十分に天皇と
朝廷を利用し尽くしており、天皇・朝廷の復興はとりあえずこの程度にしておこ
う、と言うところなのでしょう。
ただこれ以後も、信長と天皇・朝廷のあいだの関係に目立った変化はなく、以前
勅命を利用する戦術を用いています。
ます。
と天皇・朝廷の関係には大きな変化がないことがわかります。
信長と天皇・朝廷の関係は、その始まりから終了まで基本的には変化はなく、言
い方は悪いですが、金持ちのパトロンと、銀座の名門クラブのママとの関係のよ
うなもので、相互に利用する間柄にあり、パトロンから金が流れているあいだは、
ママの方から、その交際を清算する必要性のないことは類似しています。
信長としては、すこし入れ込みすぎたなという感があったのでしょう。
翌月、官を辞した信長は兼見に、盆栽と植木を所望します。信長にこんな趣味が
あったことに驚きますが、なにか隠居のようでもあり、微笑ましい所があります。
兼見は盆栽を一つ、松を二本信長のもとに持参します。信長はそれに対し
御對面、知行之儀被仰付村井之旨直仰也、尤面目、大慶不過之
とあるように、村井貞勝に命じ、兼見に知行地を与えます。これが、信長と公卿
達との関係の根本であり、天皇といえどもその枠の中にありました。