惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉖)

 
 
 

信長は、右大臣を辞した後も、しばしば上洛します。祇園御玉霊繪を見物

したり、二條屋敷で相撲を興行し、公卿らは残らず見物に訪れています。

又、安土と都のあいだに、新道を整備し往来を活発にしています。

天正六年八月には信長は禁裏に白鳥と塩引を進上し、翌七年十一月、誠
親王二条御所を献上します。

翌月には信長は二条御所を訪問し、親王とともに公卿らとの謁見に臨んで
います。又、信長は親王に鶴を送り、公卿らに分配されました。

吉田兼見は、信長の上洛があると、御菓子を持って信長のもとを訪問して
おり、時には茶の湯の接待を受けています。

天正八年八月十二日の、兼見卿記内の記述には

右府信長御果子持参、折六角、七種、打栗、フ、金團、石榴、大豆飴
煎米、タ、キ牛蒡 御乱披露也

とあり、この時点で森乱が、取次ぎの任に猪子兵介らに代わりあたっている
ことがわかります。

信長は上洛すると鷹狩をおこない、そのもとを公卿らは訪れており、官を辞
した後もかわらず交際を続けていることがわかります。

天正八年三月、信長は村井貞勝に、本能寺を都での屋敷にするべく普請を
命じています。

この時期都には、信長の他、嫡男信忠、織田信孝らが上洛しており、兼見は
信孝を訪問したところ、蹴鞠の最中であったので会えずに帰った、と日記に
書いています。

織田一族の中心的人物らと公卿との交流がみられ、朝廷と織田一族との関係
が、以前と変わりなく推移していることがわかります。