惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㉑


筒井順慶は、得度前の名前は藤勝と言います。順慶の足跡は「多聞

院日記」の中に、詳細に述べられています。

順慶の正妻は、明智光秀正妻煕子の妹であり、又光秀の次男が子
のない順慶の養子となっていると言われるが、事実関係はどちらも
定かでありません。

筒井家は、一族の慈明寺順国の子定次を、養子に貰い受けます。
秀吉により、筒井定次伊賀上野城主となり大和国を離れます。

家康の時代となり、定次は突如改易され、筒井家は取り潰しとなりま
す。更に定次は嫡男ともども切腹させられる事になりますが、その理
由は定次がキリシタンであったからといわれています。

定次の妻は明智光秀の養女であったとの説がありますが、これも事
実関係は定かではありません。



伊賀上野城に残る筒井氏時代の
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