惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㉝

 

奉公衆の出自は、文安元年(1444年)から明応三年(1494年)まで

の50年間に限ってみれば、最も多いのは土岐一族で、明智氏石谷
氏、小里氏、原氏、揖斐氏など十四氏を確認できます。

続いて近江の佐々木一族が多く、井尻氏、塩谷氏、大原氏、吉田氏な
ど十一氏を確認できる。美濃の遠山一族がこれに続き、櫛原氏、馬籠
氏、神野氏などがあり十氏におよんでいます。

足利氏一族ではない源系の氏族名が多くみられるが、今川(関口氏)、
一色氏、畠山氏、細川氏など足利一族に連なる者も少数ながらみられ
ます。政所執事の伊勢氏、政所代の蜷川氏、執事代の松田氏の一族
と思われる者も多数あり、政所奉行衆と奉公衆の相互交流をうかがう
ことが出来ます。

光秀と関係の深い朝山日乗は、奉公衆朝山氏の出身であり、麻生氏
は九州出身の唯一の奉公衆であり、副総理麻生太郎の先祖であると
の説がありますが確たることは不明です。(四人の天下人㉔)

永禄六年(1563年)時点での奉公衆の姓は、百年前とほぼ同一であ
るものが多く、奉公衆の身分が、世襲固定化したもであったことがわ
かります。(明智資料⑤)

義輝、義昭時代の奉公衆も、ほとんどがこの流れを汲むものであり、
土岐明智氏が奉公衆を生んだ家柄であったことを考えれば、光秀が
この組織と、信長上洛以前、無関係であった可能性は極めて低いと
思われます。
 
沙沙貴神社拝殿(佐々木氏氏神
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