本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉒)
石谷氏には、土岐石谷氏と遠江石谷氏がありますが、全く血縁関係は
ありません。
家臣であったとあります。
の流れを汲むとされ、石谷民部少輔が史料上に登場します。
このあたりに長宗我部氏と石谷光政、頼辰親子との接点を見出すこと
ができますが、確たるものではありません。
土岐石谷氏が、奉公衆に組み入れられた時期は定かではありませんが
この時点で、将軍の直接の家臣である奉公衆になったと推測されます。
美濃の乱で、将軍権力の強化をめざす義満の策動に、美濃、尾張、伊
に組み込まれたのでしょう。
土岐一族は奉公衆内では最多であり、番帳内では多くが四番衆として記
連帯感が存在していたと想像できます。
この石谷氏は幕府内では将軍側近として、光政は御小袖御番衆、頼辰
は外様詰衆をつとめていました。
又石谷光政、頼辰両名共に、都に入る塩等の荷物にかかる税の徴収に
当たっており、飯尾、松田らの奉行人による連署奉書が残っています。
この時代は将軍の決裁を経ることなく、このような財政にかかわること
も、政所内で進められており、伊勢氏を中心とした奉行人が奉公衆石谷
氏に、指示していることがわかります。
このように石谷氏に関しては良質な一次史料が残っており、彼らの動き
から、明智氏、斎藤氏の足跡の一部を知ることができます。