惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㊴

 

明応二年細川政元は、奉公衆を引き連れて、河内の畠山基家を討伐に向

かった十代将軍義材に対し、クーデターを敢行します。

この企てには、日野富子も参画し、政所執事伊勢貞宗の指示で、将軍傘
下の軍勢は、義材を残して都へ引き揚げます。

この後の顛末は色々とあるのですが、結果として義材は廃され、十一代
将軍として義澄が就任します。

この事件を明応の政変といい、将軍の権威は地に落ち、幕政は細川吉兆
家に牛耳られます。

この事件以後、将軍権力の弱体化を目論む細川氏らにより、軍事力として
の奉公衆は解体され、将軍権力を支えた強力な軍事力が失われることで
、将軍の傀儡化が進行しました。

細川政元は半将軍と都人から呼ばれ、絶大な権力を握りましたが、性格
的に欠落した部分が多分にあり暗殺されます。

政元は、前将軍義材と結び敵対した比叡山延暦寺を焼討ちしています。

延暦寺焼討ちは、信長の専売特許のようにいわれますが、細川吉兆家に
よりすでに行われており、都人にとって殊更忌避するものではなかったよ
うです。

足利義教が整えた奉公衆の制度は、足利義材の将軍退位により実質的
にその軍事力としての機能を失い、奉公衆とは将軍に近侍する家臣の意
味へと変化していきます。

三好一族に襲撃された足利義輝を、守りきれなかった奉公衆の実力がそ
れを如実にあらわしています。

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