惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊹)

 

明智光秀本人の名前が、信長上洛以前、足利将軍家関係あるいは奉

公衆、奉行衆として、資料の中に記されることはありませんでした。

しかし、土岐明智氏が奉公衆としての家格があり、それが世襲されて
いる事を考えれば、信長上洛以後の義昭のもとでの活躍を見ても、足
利将軍家とかかわり合いをもつ人物であった事は、ほぼ確実であった
と思えます。

信長実母土田御前が明智氏の血脈を引き継ぐ者であり、信長父信秀の
母も又土田一族の出であり、信長自身も明智氏の血を色濃く受け継い
でいた事を考えれば、光秀の足利将軍家ならびに織田家との関係性は
長いものであったと思われます。(光秀と信長①②)

朝倉氏は、その本貫地は但馬国朝倉荘であり、越前朝倉氏はその支流
にあたり、朝倉氏一族は多くの奉公衆を輩出しました。

光秀は、義輝が殺害された後、それら奉公衆仲間を頼り、越前に赴いた
と思われます。

かって明智氏所領に隣接して所領があった土岐小里氏も、奉公衆の家柄
であり、奪われた美濃の所領を朝倉氏の支援で奪還しています。

光秀も朝倉氏のもとで、所領の回復を意図していたのかもしれません。