惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊺)



天正七年九月十一日信長は上洛します。これは摂津への出陣に備えての

上洛でしたが、吉田兼見は「兼見卿記」の中の九月二十六日付けで、こう
記しています。

惟任姉妻木在京之間罷向、双瓶・食籠持参、他行也、渡女房館皈、
向村長、將碁、

光秀の姉が都にいる時に、お酒と食べ物を籠に入れ持参し、女房の住居に
届け帰り、村井貞勝の所に向かい碁を打ったとあります。他行とは外出の
事です。

惟任姉妻木が、信長に従い、安土から都に入ったのですが、信長の身の回り
を世話する目的なのか、あるいは信長正室に奉仕する為かは不明ですが、
この時代は戦場に向かう武将は女性を遠ざける、との見方をとれば後者のよ
うに思われます。

信長正室は、光秀父の妹の息女ですから、そこに光秀の姉が女房として付き
添っていたとも考えられます。いずれにせよ兼見は、女の館に堂々と渡った
ようですから気安い仲であったようです。

信長は二十一日出陣し、二十八日都へ帰陣し、十月九日安土へ帰還します。
惟任姉妻木は同時に安土に帰ったのでしょう。

「兼見卿記」の、同年四月十八日付けの記述に、この女性と思われる人物が
登場しますが、

妻木惟向州妹参宮、神事之儀以書状尋来、月水之儀也、則答

とあり、今度は光秀妹とあります。この内容は、光秀妹が参詣にあたり、神
事に関わることを、書状で尋ねてきたとあります。月水とは女性の生理の事
で、生理中に参詣していいかどうかの質問と思われますが、兼見はこの質
問に即答したと言っています。どの時代でもこの類の事は聞きにくいことな
のではとおもわれ、女性と兼見の親密さがみてとれます。

この時も、信長出陣にあわせて、都へ入っていたようで、信長はその後まも
なくして都へ帰陣しています。

光秀の姉妹が信長の身辺近くにいたことがわかりますが、この人物がなぜ光
正室煕子の出自である妻木を名乗っているのか、またこの妹は姉の誤記で
はないかとの疑問を持ちますが、いずれにせよ光秀の親族が、信長かその正
室の身辺近くに仕えていた事は間違いありません。

「多聞院日記」の天正九年八月二十一日付けの記述には

惟任ノ妹ノ御ツマキ死了 とあり 向州無比類力落也

と光秀がこの女性の死に大変落胆したとあります。(光秀と信長④)

しかし「兼見卿記」内にはこの女性の死去に関する記述はありません。信長
天正九年、桑実寺へ無断で参詣した女房衆を、成敗したといいます。

この中に、光秀の親族はいなかったと思いますが、見知った顔もあったであ
ろうと思われ愉快なことではなかったでしょう。

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