惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㊵

 

光秀の時代、囲碁は多くの武将に好まれ、織田信長も愛好家の一人で

した。その影響か、村井貞勝には囲碁にまつわる記述が多く見られ、「
兼見卿記」の中でも、吉田兼見との対戦の様子が数多く残されています。

天正四年四月十二日、 向村長、將碁 とあるように村井貞勝邸を訪れ
碁を楽しんでいます。

その後も、彼らの対局は途切れる事無く、天正七年には、三月十五日、
三月二十九日、四月七日、四月十七日、四月三十日、と頻繁に囲碁
楽しんでいます。

そのほとんどが 向村長、面會、將碁 とあり貞勝邸で行われています。
天正九年十二月二十九日には 歳暮、春長軒罷向、將碁四五盤指之
とあり、年末忙しいのに、囲碁に没頭している様が記されています。

天正十年四月十一日には 向春長軒、將碁、暫相談 とあり囲碁の後
なにか話し込んでいます。

同年五月四日、これが、貞勝と兼見の最後の対局になるのですが、お礼
に伺ったついでに対局し、この時も、將碁、暫相談 とありなにか相談事
があり話し合っています。

六月二日、村井貞勝は、光秀の本能寺襲撃を、信忠に伝えるべく妙覚寺
へ駆け込みますが、そのまま、息子二人とともに討死します。(明智
料⑲)

「兼見卿記」のなかには、兼見が貞勝以外と碁を打ったという記述は見ら
れず、貞勝の碁好きに付き合っていたというのが実態だったようです。

そしてその場は、相互の情報交換の場所であった可能性があるとも思え
ます。


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