惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㉟

 

天正二年七月二十九日、信長は光秀に長文の書状を出しています。

これは、光秀が信長に出した二十七日付けの書状の返事で、二十
九日に受取り、即日返信しています。

この書状は現物が細川家に残り、八月五日までの細川藤孝宛書状
と内容が一致するところがあります。

光秀が藤孝に見せたものが、そのまま藤孝の手もとに残ったのかも
しれません。

光秀と信長は、信長が安土に移る前は頻繁に書状で連絡を取ったと
思われますが、光秀からの書状は現存する物は皆無で、信長からの
ものも、細川家に残ったものを除けば一点あるのみで、写しを含め
ても数点にすぎません。

一番古いものは、元亀元年のものですが、織田一族が保存していた
もので、信長が光秀に与えた書状であると添書きがあります。

この書状で、信長は光秀に摂津における所領給付に対して、詳細な
指示をだしており、この時点においてすでに、義昭家臣の枠を超え
た活動を光秀は行っており、興味深いものがあります。

天正二年七月二十九日の信長の書状は

先書之返事、廿七之日付、今日披侯、切々ロ寔寄特侯、次南方之
趣、書中具ニ侯ヘハ、見ル心地ニ侯

とあり、光秀の信長宛の書状が、現地の情況を詳細に伝え、手に
取るように様子がわかり、奇特(優れており賞賛すべきである)と
いい自らも、光秀に精緻な指示を与え、伊勢長島での戦況を克明
に伝えています。

信長の家臣に対する書状は、要点を手短に述べたものが多く、この
時点での信長の光秀に対する強い信頼感が、書状から感ぜられま
す。

信長の書状は、祐筆の手により書かれましたが、その書体の美しさ
は特筆に値します。彼らが緊張感をもって信長の美意識に応えてい
たことがみてとれます。


細川藤孝宛信長黒印状
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