本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉙)
天正元年七月二十四日、光秀は山本対馬守攻撃に向かう途中、吉田兼
見を訪問しています。
翌二十五日早朝静原山城を攻撃しますが、対馬守は城に籠り光秀は城
外を放火しています。光秀が浅井・朝倉殲滅戦に参加していたかは不明
ですが、八月後半になると新たに織田領になった越前の統治に携わって
います。
給したり、商工政策に対する取り決めを、商人に指示したりしています。
越前の事情に詳しい光秀を、信長は仕置き奉行の一人にあてたと思われ
ます。越前での仕置きを終えた光秀は、代官として家臣三沢秀次をあて、
九月末坂本城へ帰還しました。
十月にはいると、静原山城の山本対馬守を調略をもって討ち取り、その
首を北伊勢に出陣している信長のもとに送っています。
山本対馬守は山本尚治といい、この後岩倉山本氏は没落し、この地は山
ました。
行を安堵する文書を発給し、都の統治に従事しました。
「多聞院日記」に
タモン山ルス番替ニ明智来了云ゝ
と記されています。
うで、光秀に替わり、多聞山城の留守役に入った細川藤孝あてに、織田軍
の陣容を連絡しています。
還し、坂本領の統治と、村井貞勝とともに都で政務に当たっていたようです。
軍指揮官としてだけではなく、行政官としての職務を遂行している織田家
家臣光秀の姿が見て取れます。