惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉗)

 
 

足利義昭は、十二代将軍義晴を父に持ち、兄十三代将軍義輝同様

、関白近衛尚通の娘慶寿院を母に持ち、門跡寺院興福寺一乗院に
入室します。

武家の棟梁としてだけではなく、五摂家筆頭近衛家に繋がり、南都
の守護としての未来を嘱望された、武家、公家、仏教界の頂点を極
めることができる人物でした。

世が世ならば、尾張守護職斯波氏の、守護代の家老の家柄である
信長など、対等に口を利く事などできない人物でしたが、この戦国
の時代、兄義輝同様実力を有する者たちに、残酷な運命をおしつけ
られ、歴史の舞台から抹殺されていきます。

義昭の足利将軍家の権威復活の試みは、信長の領土拡大戦とある
時期は一体化しており、相互に利用し利用される関係を構築してい
ました。

もし信長が義昭と出会わなかったら、恐らく信長は、尾張、美濃そし
て伊勢半国の地域領主として、その人生を終えていた可能性が大き
かったでしょう。武田家の西進、上杉家の南進、そして浅井・朝倉・
六角等の諸家との争いに、消耗戦を繰り返す日々が続いたと思われ
ます。

本願寺門徒の伊勢、尾張での蜂起に手を焼き、家康の武田家への
従属もあったかもしれず、義昭を奉じて、都にのぼることで、その権
威の復活と織田家の領土拡大を重ね合わせた、信長の先見の明、
決断力、果敢さは天才的であり、織田家を全国政権への道へと導き
ました。

信長が義昭を奉じて上洛した時、尾張の大うつけといわれた信長が
漠然と抱いていた天下布武の四文字が、現実味を持って信長の脳
裏に浮かんだことでしょう。

義昭を都から追放した信長は、元亀四年七月二十八日、年号を元亀
から天正へと改元します。

光秀は、信長の槇島城攻略に参加し、その後、山本対馬守の籠る山
城国静原山城を攻撃し、引き続いて信長とともに近江国木戸・田中
両城を攻略し、この二城を与えられています。

光秀らはこの後、浅井・朝倉勢との戦闘に備え、調略活動を活発化さ
せ、浅井長政武将、阿閉貞征を味方に引き入れます。



静原山城
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