本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉕)
武田信玄の三方原における徳川・織田連合軍撃破の報せは、足利義
をくだします。
光秀に従っていた、洛北武士団の山本対馬守、磯谷久次、渡邊宮内
少輔らは、叛旗を翻し、近江へ進み、山岡景友らと共に、今堅田城や
石山城に籠城し、織田軍と対峙します。
吉田兼見はこの時、彼らからの預かり物を拒絶し、光秀へ使者を送っ
ています。しかし義昭からの申し出は断れなかったのか、堀工事の人
足を派遣し、武具の材料を供出しています。
え元亀四年二月二十九日、近江今堅田城を攻略し開城させました。
しかし、義昭の戦意は衰えず、信長に人質を帰し、二条城の堀を深く
して、信長との戦闘に備えます。
信長は三月二十五日、岐阜を立ち、二十九日には粟田口に到着し、同
日知恩院に本陣を構えます。
が発生する」との、父兼右の発言の是非を問いただしています。
兼見はこれは根拠なきものである、と答え信長は洛中放火を決定した
といいます。信長のこの質問の真意はわかりにくく、延暦寺をすでに自
らの手で焼討ちしておきながら、何を今更、との感が拭えませんが、以
外と体裁を気にする信長らしい、ともいえます。
四月二日、三日と洛外を、四日には上京を焼討ちし、上京は悉く焼失し
ました。この時信長は自ら禁裏へ赴き、御所の安全と延焼の有無を確
認しています。心配するなら、焼討ちしなければとも思うのですが、こ
ういうのが信長らしい行動なのでしょう。(四人の天下人⑦)
これに驚愕した義昭は、信長に和議を申し入れます。信長は織田信広
を名代として遣わし、和議をまとめさせ、信玄の動向が気になるのか、
八日に岐阜へ帰還します。
勢に同調しているとの噂が信長の耳に入り、信長は激怒して、十一日
百済寺を全山焼き払いました。
のもしれません。「信長公記」内では、哀れたる様、目も当てられず
とあります。
とりあえず、おとなしく和議に応じた義昭でしたが、その戦闘意欲は
衰えず、又しても信長に戦いを挑みます。