惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊴)

 

信長公記」によると天王寺合戦の様子は


五月五日、後詰トシテ、御馬ヲ出ダサレ、明衣ノ仕立纔カ百騎
バカリニテ、若江ニ至リテ御参陣

とあり、信長は寝間着のまま、馬廻り百騎とともに出撃します。

五月七日には、兵士が集結しないなか

一万五千バカリノ御敵ニ、纔カ三千バカリニテ打チ向ハセラレ
御人数三段ニ御備ヘナサレ

と、三段で魚鱗の密集陣形を形成し、突撃を敢行します。

御先一段、佐久間右衛門、松永弾正、永岡兵部大捕

とあり、一段目は、佐久間信盛松永久秀細川藤孝がうけお
い、信長馬廻りは三段目で予備軍にまわり、信長自身は

先手ノ足軽ニ打チマジラセラレ、懸ヶ廻リ、爰カシコト、御下知
ナサレ、薄手ヲ負ハセラレ、御足ニ鉄炮アナリ申シ侯へドモ

とあるように、足軽に混じり最前線で兵を指揮し、負傷しつつも
光秀の籠る天王寺城に駆け込みます。

ここで信長が凄いのは、援軍の到着を待って再戦すべきとの意
見を退け、

今度間近ク寄リ合ヒ侯事、天ノ与フル所ノ由、御諚侯テ、後ハ
二段ニ御人数備ヘラレ、又、切リ懸カリ、追ヒ崩シ

と、今度は二段で鶴翼の陣形に整え、陣形の崩れた本願寺勢に
対して、追撃戦を敢行し、

大阪城戸口マデ追ヒツキ、頚数二千七百余討チ捕ル

石山本願寺まで逃げる敵を追い、多数の首を獲りました。

三千の手勢で、一万五千の敵にあたる信長の姿には、この人の
真骨頂が見て取れます。

近接戦での鉄砲の使用のむずかしさを、熟知した信長の戦い方で
恐らくは、鑓、刀を使用した乱戦が展開し、鉄砲の使用には熟練し
ている門徒勢も、戦慣れした織田勢に切り崩されていった、と思わ
れます。

同じ三千挺の鉄砲で、武田勢を撃破した長篠の戦いの逆の展開で
あり、馬防柵の有無が勝負を決定づけた、との感を深くします。

臨機応変に戦い方を構成する、信長の天才と勇気には感服します。


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