惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊱

 
 

信長は天正四年四月五日に、摂津平野荘惣中宛に朱印状を出し

ています。十六日には光秀が平野荘へ入って陣を置きます。

信長の朱印状には

従当所大阪兵糧入事、可為曲事候、堅停止簡要候、若猥之
族聞立、可令成敗之状如件
         平野荘惣中           信長(朱印)

とあり、平野荘から本願寺に兵糧を搬入することを禁じ、もし調査
して違反があったら、村ごと焼き払うと脅しています。

この平野荘は摂津における海外貿易業の拠点であり、信長はこ
こを直轄地化しており、そこに光秀を送り込み、織田軍に対する
補給地の確保と、本願寺勢に対して経済封鎖を試みていること
がわかります。 

五月九日にも、平野惣中宛に

天王寺取立之城普請、門井家・堀・柱等事、委曲申含蜂屋
兵庫助差越候、為庄中別而馳走、可為忠節候也
                            信長(朱印)

とあるように、付城を作る為に、馬廻り衆蜂屋頼隆を派遣するか
ら建築材料の調達に奔走するよう命じています。

ここで興味深いのは、平野荘という狭い商業エリアに朱印状を送
ってまで、そこから生まれる商業利潤の確保をめざす、信長の姿
勢です。

この時の織田家の軍事力を支える富の源泉は、寺社からの略奪
であり、もう一つが領土的には限定されますが、高い利潤を生み
出す商業地域の独占化にあったことがわかります。

前年、越前に侵攻した信長は、本願寺系寺院の徹底した破壊と、
信者に対する大殺戮を行い、本願寺系の国人領主を含めて一掃
し、その富を手中におさめました。

また信長は越前森田三郎左衛門宛に朱印状を発給しています。
森田三郎は、越前三国湊の回漕問屋で、敦賀一円に拠点を持っ
た越前有数の海運業者でした。

今度就可忠節、最前雖朱印遣之、自然他朱印有之者、令
破為申付、重而朱印遣之訖、全領知不可有相違候也
              森田三郎左衛門殿    信長(朱印)

言い方は穏やかで、以前の朱印状を無効にして、新たに朱印状
を発給して、領地の保全と営業を認め、そこから生まれる利潤を
独占します。

同様にほぼ同時期に信長は橘屋三郎左衛門に朱印状を与えて
います。
橘屋三郎左衛門は越前の軽物商で、軽物とは絹布の事です。

橘屋は戦いを避けて能登にいましたが、戦いが終わると越前に
帰還し信長は営業安堵の朱印状を橘屋に与え、当時高級品で
あった中国製の織物の取り扱いを認可します。

橘屋三郎左衛門は、天正元年の朝倉氏滅亡の時すでに、信長
から越前三ヶ庄の座長を命じられており、光秀は同地区の軽物
商人に対して橘屋の指示に従うよう命令しています。

津島、熱田と商業の拠点を軍事的に制圧し、そこから生まれる
富を独占し次なる侵攻に備える信長の成功パターンは、拡大再
生産され、新たなる標的を求めます。

このように、光秀は、軍事面だけではなく、信長の経済政策を支
える主要な家臣の一人であり、秀吉同様信長の目指すものを、
正確に理解できる人物でした。


末吉船(末吉氏は平野庄を治め海運業を営みました)
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