惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊳)

 

天正三年十月、織田信長本願寺は三好康長を仲介人として講和

を結んでいます。戦況不利な本願寺からの申し出でしたが、信長は
石山本願寺への総攻撃を延期します。

翌年四月には、毛利氏の庇護を受けた足利義昭と連帯して、本願
寺は挙兵し、織田軍と対峙します。

「兼見卿記」の四月十六日の記述には

惟任日向守至南方出陣、通比表也、罷出申礼、河州在陣
平野云ゝ

とあり、光秀は河内平野へ出陣したとあります。

この時の織田軍の部隊編成は、前年光秀同様原田直正と改名した
塙直正の軍を主力として、荒木村重細川藤孝らの部隊が本願寺
包囲網を形成しており、それに新たに光秀の部隊が投入された形
になっていました。

五月三日戦局が動きます。塙直正の主力が、大阪湾と石山本願寺
の間にあり、軍需物資供給の拠点であった三津寺砦を、攻略すべ
く向かいますが、数千挺の鉄砲で武装した本願寺勢の猛攻を受け
て、直正は戦死し軍は崩壊します。

直正出陣で、留守になった天王寺城に入った、光秀と佐久間信栄
らにも一万を超す本願寺勢が迫りました。

五月四日の記述には

天王寺表大阪衆及一戦、原田備中討死、惟日・荒木・三
好山城各令籠城、既及難義云ゝ
 
とあり、光秀ら織田軍苦戦を伝えています。

翌五日には

辰刻左大將殿御出馬、二千計、追ゝ上洛次第出勢

とあり、急報を聞いた信長は、馬廻り、小姓らを中心に二千の軍勢
とともに、寝間着のまま出撃します。(光秀とその日常⑳)

この時信長は、三段にしか陣形を組めない部隊で、本願寺勢に突
撃を敢行し、自らも足に被弾しながらも敵を撃破します。

部隊主力の到着を待たず、兵士を伴わず到着した武将らとともに、
数に勝る本願寺勢を撃破し、救出作戦を実施した信長に光秀は感
謝の念を持ったことでしょう。