惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉟)

 

「多聞院日記」の天正三年五月十七日付けの記述に


岐阜ヘ筒井ヨリテッハウ衆五十余合力ニ被遣之

とあり、筒井順慶から鉄砲の射手を信長へ派遣したとあります。
英俊は迷惑な事、と述べています。

信長から細川藤孝宛の五月十五日付けの書状には

去十二日之折紙令披閲候、鉄炮放、同玉薬之事、
被申付由尤候、------

とあり、藤孝が鉄炮の射手と弾、火薬を命じたとおり調達している
のを喜んでいます。

五月二十日には、信長は藤孝へ再度書状を送り

折帋令披見候、鉄炮之事被申付、令祝着候、此表
之儀弥任存分候、----ーー

と鉄砲衆の派遣について述べ、翌日二十一日には長篠での戦況を
報じ、鉄砲衆を帰京させた旨伝えています。

光秀も、鉄砲の射手を派遣したと思えますが、史料には残っていま
せん。

信長は参陣を求めなかった諸将にも、射手、武器、弾・火薬の供出
を命じているのがわかり、「信長公記」によれば三千丁の鉄砲が集
められた、とあります。

狭い設楽ヶ原での戦闘では「へたな鉄砲数うてば当たる」の喩では
ないですが、極めて効果的で、多くの武田勢を負傷させ、撤退速度
の遅さから、追撃戦では屠殺にも似た戦闘が行われ、武田勢の死
者は一万に及んだと「信長公記」に記されています。

一万とは大袈裟に思えるのですが、山県昌景真田信綱、馬場信
春ら、かって信玄を支えた宿将の多くが戦死しました。


長篠合戦図屏風(徳川美術館
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