惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊺)

 
 

天正六年六月十八日付けの、荒木村重宛信長黒印状は六か条か

ら成り

大船方々相尋候共、無之由候ーーーー

とあるように、前線から要請のある大船が間に合わないので、現地
調達に努めるように、とあり、続いて毛利氏、本願寺の動向を報せ、
淡路の安宅信康に対する調略を、村重からも行うよう指示していま
す。

続いて他戦線の戦況を伝え、宇喜多直家については

宇喜多、八幡山罷越候由、勿論差事無候、相替事候、申越候

とあり、宇喜多勢が八幡山へ向かった。何もできないだろうが、変
わったことがあれば連絡するようにと述べています。

最後に

誠ニ遠路日々ノ注進油断ナキノ段、感悦斜メナラズ候、尚見参
ノ時、申シ聞カスベク候也

とあり、攝津から、村重が信長へ連絡を欠かさず、日々報告をいれ
ていることを大変喜んでいます。

この頃は二人の仲はうまくいっていたのでしょう。

この後すぐに完成した鉄甲船六艘と大船一艘が到着したようで、本
願寺側の水軍と戦い勝利しました。

七月十六日には大阪湾に入り、海上鎖を行い毛利氏からの補給
路を遮断し、織田方は優位に立ちます。

戦局的には織田方優位な情況が展開していますが、村重は、義昭、
毛利氏、本願寺と共謀し信長に背きます。

信長は疑り深い人ですが、一度信用してしまうと、急にガードが甘く
なる傾向があり、この時も如実にそれがでました。

十月十七日、本願寺顕如光佐は荒木村重、新五郎親子宛に誓紙を
与えています。

対当寺一味之上者、善悪付付而互相談可令入魂候、従是可申懸
処、遮而承快然候、-----------知行方之儀、惣別
不相構候、取分其方知行分猶以無意趣候、ーーーーーーーーー
摂津国之儀者不及申、御望之国々右如申、知行方従当寺裁判・寺
規、法度候被対申公儀併芸州御忠節之儀候間、被任存分様ーー

      十月十七日  荒木摂津守殿     光佐(花押)

とあり、摂津の国は言うに及ばず、公儀(義昭)、芸州(毛利氏)に
忠節を示す事で、御望みの国を守護するのを認めると言っています。

いつ、どのようにして、本願寺、毛利の調略の手が、村重にのびたか
はわかりません。

しかし、細川藤孝はこの村重の動きを注意深く監視しており、度々信
長に対して異変を注進しています。

信長は藤孝に対して

就摂津雑説、切々様体申越候、懇切之儀祝着候、其付宮内卿法印
・万見仙千代遣之、併又惟任日向守中含越置候、相談候、外聞
然候様気遣専一候、猶委曲松井可申候也

と、摂津におけるいろいろな動きを、詳細に報告してくれて感謝して
いると伝え、松井友閑と万見仙千代を派遣するとあります。

併せて光秀に、色々含ませた上遣わすから、相談するようにとあり
ます。光秀が荒木新五郎(村次)の舅であるから、相談してうまくや
ってくれということでしょう。

噂は広がりやすいから、注意するようにと述べ、詳細は報告に来た
松井康之から口頭で述べさせるとあります。

松井は細川家家臣であり、異変を伝えるべく信長のもとに赴き、そ
のまま信長の返事と書状を持って、藤孝のもとへ戻ったのでしょう。



宮内卿法印(松井友閑)朱印状
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