惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊻)

 
 

「兼見卿記」の天正六年九月廿七日の記述には


右府御下向南方

とあり、信長が大船を見る為に、堺へ向かったことが記されてい
ます。

信長公記」にも同様な記述があり

九月廿七日、九鬼右馬允大船御覧タサルベキタメ、京都ヨリ
八幡マデ御下リ、翌日、廿八日、若江に御泊リ。廿九日、早
朝ヨリ天王寺へ御リーーーーー晦日ニハ払暁ヨリ堺ノ津ヘ御
成リーーーーー

とあり、信長が堺で大船を見たことを記しています。

天王寺佐久間信盛のところに立ち寄っていますから、軍議
もあったでしょう。そこには当然荒木村重の姿もあったはずで
すから、謀反の動きが本格化するのはこの後からでしょう。

「陰徳記」によれば、荒木村重の従弟の中川清秀が荒木軍の
先鋒として本願寺勢と対峙しており、あろうことか清秀の郎党
が、夜間米を城中に運び込んでいたとあります。

それが、織田軍の別の部隊に見つかり、目付から信長に報告
がなされたとあります。

これが村重謀反の発端となるのですが、信長は村重謀反の動
きを全く関知しておらず、村重謀反の要因は別の所に求めた方
がよさそうです。(光秀とその時代⑦)

村重は度重なる信長からの説得に応じず、両者の間で戦端が
開かれます。

十一月九日信長は攝津に出陣します。この出陣には宣教師が
同行しており、オルガンチノはキリシタンである高山重友(右近
)を説得し、信長に帰属させます。これに驚いた中川清秀も、信
長に降り、荒木村重は苦しい立場に置かれます。

この時清秀は信長から金子三十枚を拝領したといいます。
「立入隆佐記」によると、村重は戦になる前、茨木城で中川清
秀に会い、信長との武力対決を薦められます。

これが事実だとすれば、清秀のマッチ・ポンプさには呆れますが
村重は清秀らの離反を知り、毛利氏に救いを求めて、人質を差
し出します。


荒木摂津守儀、連々以申通候首尾、人質等差出之現形候
誠太利之段、不可過之候

と家臣に書状を与えています。

荒木村重のことは、引き続き首尾は上々であり、人質提出は大
勝利だ、とあり一連の動きに毛利氏が関与していたことを窺わせ
ます。
 
細川藤孝は、相変わらず、せっせと信長に情報を提供しており、
信長からの書状には
 
精入度々注進、尤以感悦候、猶々惟任相談時宣、追々可申
越事専一候也

とあり、光秀との相談を優先させるよう、指示しています。
 
十一月六日、織田の水軍は、押し寄せた毛利水軍を、大船の大
鉄砲で撃破します。これで有岡城は孤立し村重は苦境に立たさ
れます。

十二月八日、織田軍は有岡城を攻撃しますが、この時、万見仙
千代は無謀な突撃を敢行し戦死します。

荒木村重の謀反は、その初期には信長を困惑させ、信長は朝廷
を動かし、本願寺と講和することを考え、あわせて毛利氏との和平
も望みました。

安芸国への、勧修寺晴豊ら勅使下向の日取りまで決まりましたが、
茨木城主中川清秀の内応がわかると、信長はこの計画を反故に
します。

しかしこの信長と本願寺との和平への動きは、天正八年の和談の
下書きとなり、勧修寺や源大納言らのもとに残ります。


 
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