惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊴

 

荒木村重の謀反は信長に大きな困惑をもたらし、「志賀の陣」の二の

舞再現を恐れて、又しても朝廷と天皇を利用し、本願寺および毛利氏
との講和を画策します。

本願寺に勧修寺晴豊らが赴き、勅命を伝えます。顕如は条件つきです
が、正親町天皇のことばを聞きいれます。
 
更に信長は、毛利輝元宛にも綸旨をだして、和解することが必要と言い
出し、以下の文言で発給する用意がなされました。

前右府与当国之事、相克之段、併都錯乱之基、太以不可然候、此
節自他和談之儀仰出候者、被廻思慮候者可為忠功候、然者、対本
願寺門跡同前被仰出候、猶、可被仰含源大納言、勧修寺中納言
者、依天気執達如件

    天正六年十一月四日             右中弁兼勝
    毛利右馬頭殿

勤皇家である毛利家としては、こんなものをもらったならば受けざるを
得ず、苦しい選択を迫られたでしょう。

勧修寺晴豊と源大納言は、十一月二十六日安芸国まで下向すること
となり、準備に追われていたところ、二十四日、茨木城の中川清秀
織田方に内応した、との報せが信長に届きます。

廿四日、中川瀬兵衛清秀信長公帰参候由、勿御思案替、勅使之下
向延引被仰出候

とあるように、信長はこれにより意見を変え、勅使下向は無期限延期
となり、戦闘は継続します。

信長恐るべしとの感を深くしますが、少し我が儘がすぎるのではとも
思えます。

いずれにせよ目的の為には手段をえらばずであり、徹底したプラグマ
ティズムの権化である信長の面目躍如たるものがあります。

信長にとってすでにこの時点で、天皇、朝廷共にこの程度の存在で
しかなかったのでしょう。



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