惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㊽

 
 

一色氏は丹後守護の家柄であり、美濃守護土岐氏とは縁戚関係が

ありました。

一色義定(義有)は武勇に優れ、細川氏の丹後侵攻に頑強に抵抗
しました。弓木城に籠った義定に苦戦する藤孝に対して、光秀は義
定と藤孝娘伊也との婚姻を助言します。

この婚姻はまとまり両者の間に和議がととのい、丹後を南北に二
分し分割統治することとなりました、

信長は義定の力量を評価しており、天正九年の都における馬揃え
や武田氏討伐戦に参加しています。

義定は光秀と近い関係にありました。土岐氏に繋がるものである、
との認識が両者にあったのでしょうか。

天正十年九月八日、義定は宮津城において、細川氏により謀殺
されます。警護の為に同行した家臣も皆殺しにされました。

秀吉の指示があったとの説がありますが、信長亡き後のどさくさに
まぎれた、細川氏単独での、丹後統一の企てだったのでしよう。

細川忠興は宴席の最中、盃をとった義定に斬りかかります。義定
は袈裟斬りにされ、その体は二つに割れて倒れました。

この際用いた刀は現存しており、豊臣秀次が所望したといいます。

義定と伊也は夫婦仲がよかつたのでしょう。後日対面した忠興に
斬りつけ、あやうく身体をかわした忠興は、鼻を斬られました。

忠興は父藤孝に似ず、よく人を殺していたようで、舅光秀から投降
してきた者を無闇に殺害するな、と戒められています。

丹後支配に関しては細川氏には不満があり、信長、光秀がいなく
なったのを幸いとして行動にでたのでしょう。光秀と藤孝の関係性
には、このように一色氏を介しての利害関係が内在し、藤孝の立
場を微妙なものにしていました。


銘 信長拵  一色義有御討果腰物
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