惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊿)

 
 

天正七年七月三十日、正親町天皇は、丹波宇津城を攻略した光秀

に、丹波山国荘の御料所を回復したとして、馬・鎧・香袋を賜りまし
た。城を陥落させたのは、七月十九日でしたからすばやい反応で、
朝廷がこの報せを心待ちにしていたことがわかります。

翌年十月十六日には、この禁裏領からの米が都に届き、誠人親王
をはじめ女中衆らにも配られ、禁中は喜びに沸き立ち正親町天皇
満足げであった、と「御湯殿上日記」に記されています。

織田家の武将たちにも経済的余裕が出来てきたことが窺われます。
天正七年十月廿四日、光秀は安土に赴き、信長に面会します。

信長公記」には

十月廿四日、惟任日向守、丹後、丹波両国一篇ニ申シ付ケ、安土
ヘ御礼マイリ御礼。其時、志々良百端進上侯ヘキ

とあり、光秀が丹波・丹後両国の統治を言い渡され、そのお礼に千
千良織百反を進上した、と述べられています。

丹後国経営にも光秀が関与していたことがわかります。

この二週間ほど前、吉田兼見は光秀に会う為に、丹波まで赴いてい
ます。

「兼見卿記」によれば十月十一日

為惟日見舞至丹州罷下、今夜本免一宿、於加伊原新城普請云々
、明日下着之由了

とあるように、丹波桑田郡の本免に一泊します。

發足本免、申刻至加伊原、普請之最中也、下山之砌於路次面會
、小袖持参、則同道城中、有夕飡之義、入夜佐竹羽州小屋一宿

翌日本免を出発し、申刻氷上郡の加伊原新城に到着します。

氷上城は普請中であり、下山してくる光秀と会い夕食を共にし、その
夜は明智秀慶の小屋に一泊しています。

十三日朝、兼見は都へ帰ろうとしますが

未明上洛、惟日不及暇乞、但自惟日以使者抑留也、既上洛之所
、惟日令下山懇之義也、令面會上洛、鮭五持来

とあるように、光秀からの使者があり、強制的に留めおかれたとあり
ます。光秀にはこういったところがあり、ひどく人間的な側面を持っ
た人でした。

前日別れを告げた兼見に又会いたくなったのでしょう。

城から鮭五匹を持参して下山し、兼見と面会しています。懇切丁寧
なことであると述べています。

兼見が安全に往来できたように、丹波の治安は完全に回復していた
ことがわかります。
兼見は都に戻ると、即近衛前久を訪ねています。禁裏領山国荘の現
況を報告したのかもしれません。

十月十五日の記述に

摂津有岡之城外城之者令皈参、悉放火、天主計相残云々

とあるように、有岡城が織田方の手に落ちました。(光秀とその時代
⑦)

この後も荒木村重の抵抗は継続するのですが、その影響は限定的
でした。


    次は、本能寺襲撃の謎にせる(光秀戦闘史Ⅱ移ります




山国荘山国神社
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