惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊾)

 
 

天正七年五月六日、光秀は小島助太夫、田中宮内等丹波土豪

八上城攻撃を命じます。

「兼見卿記」の五月十八日付けの記述には

丹州波多野在城今度惟向取詰、近々可令落着云々

とあり、八上城陥落が間もないことがわかります。

六月一日には

丹州高城落城、四百余人討死云々、搦捕波多野兄弟、亀山在之
云々、数日取詰、盡兵糧如此

とあるように、八上城は兵糧も尽き、光秀の総攻撃をうけて、四
百人余が討死し、波多野兄弟は降服します

江戸時代に書かれた「総見記」によると、城攻めに苦慮した光秀
は、母親を人質として差し出し和議を結んだが、安土に赴いた波
多野兄弟が、信長により磔にされ、怒った城兵により母親は殺害
されたとあります。

信長公記」によっても、六月二日八上城落城とあり、根拠のない
作り話であることがわかります。

明智秀慶はこの戦いで負傷し、五日には都へ戻り、六日には兼
見の見舞いをうけています。

六月八日には、安土に送られた波多野兄弟が、慈恩寺で磔に処
されます。光秀は二十二日に坂本で兼見と面会していますから、
一時戦場を離れます。

天正三年、波多野秀冶の裏切りにより、痛い目に会った光秀とし
ては満足のいく結果だったでしょう。

「多聞院日記」によると、光秀はこのあとすぐに、大和へ出陣し、
そのまま丹波へ入り、宇津城の宇津頼重を攻略し、八月九日に
は、赤井忠家が籠る黒井城を陥落させ、ここに斉藤利三を城代と
しておきます。

「細川家記」によれば、光秀は細川藤孝とともに、波多野氏の残存
勢力を丹波篠山城に追い込み、その陥落後ともに丹後に入り、一
色義定を弓木城に囲みます。

この戦いは長期化し、義定と藤孝は和議を結び、一色氏は織田の
軍門に降ります。このあたりの過程において、丹後国内に明智氏
の影響力がその後も保持され、細川氏とは微妙な問題が残ること
になります。

光秀は丹波氷上郡の寺社や住人に対して、赤井忠家を成敗したこ
とを告げ、還住を命じて、丹波支配の第一歩をふみだします。


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