本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉚)
「言経卿記」によれば、本能寺襲撃の様子はこう記されています。
夘刻前右府本能寺明智日向守依謀叛押寄了、即時前右府打死
信長が光秀謀反によりすぐさま死去したとあります。
「兼見卿記」(別本)によっても、信長の最後は
早天自丹州惟任日向守、信長之御屋敷本應寺取懸、即時信長生害
と記されており、信長が明智軍により即座に自害したとあります。
本能寺における信長方の抵抗は限定的なものであり、開戦即信長の
自死で本能寺での戦闘は終了したというのが実情だったのでしょう。
「信長公記」によれば
信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三遊ばし侯へば、何れも時刻
到来侯て、御弓の弦切れ、其の後、御鑓にて御戦ヒナサレ、御肘に
鑓疵を被り、-------女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと仰
せられ、追ひ出させられーーーー既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯
-----殿中奥深入り給ひ、内よりも御南度の口を引き立て、無情
に御腹めされーーーーーーー
と長々とその最後が記されていますが、信長には弓を取り、槍で戦う
余裕などなかつたのが現状であり、完全武装の城攻め武具を備えた
明智軍は、物置の扉など簡単に打ち破ったと思われます。
良質な史料の中には、信長の骸が都で晒されたとの記述はありませ
ん。
身柄確保は至上命題であり、このあたりの不手際が後の秀吉との情
報戦で劣勢におかれ、山崎戦での敗北に繋がっていきます。
圧倒的多数の明智軍の目前で戦う信長の最後の姿は、稀有な軍事
天才である彼の最後にふさわしいものですが、そのような時間を天は
与えませんでした。
光秀が信長の首を晒さなかったとの考えもあります。しかし武人光秀
がそれを躊躇する理由はなく、多量な火薬が備蓄されていた本能寺
の倉庫に入り、爆死したというのが信長の最後であると思われます。
信長は最後まで強運の持ち主でした。