惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉙)

 
 

本能寺へ向かった斉藤利三配下の部隊は、丹波国黒井城周辺の土豪

らから成り立つていたことが「本城惣右衛門覚書」からみてとれます。
明智資料⑱)

この斉藤隊が信長襲撃の実行部隊であったことは疑いようがなく、明
智秀満配下の部隊が信長の退路を遮断したと同時に、本能寺に突入
し森乱らの近習衆と戦闘に入ったのでしょう。

光秀が本能寺の門前で桔梗の軍旗をたてて、督戦する様はよくえがか
れますがこのような事実を伝える史料はありません。

光秀は、妙心寺に本陣を構え、都全体の戦闘を指揮していたと思われ、
各部隊の母衣衆が、妙心寺、本能寺、そして信長の退路を断つ為本能
寺の南方に布陣した秀満隊の間を駆け回っていたことでしょう。
(光秀とその時代⑰)

本能寺に突入した斉藤隊のところにも、秀満配下の母衣衆が督戦して
おり、秀満が利三よりも明智家中で上位であったことがみてとれます。

この母衣衆は本城惣右衛門に、行軍中に討取った敵兵の首を戦闘の邪
魔になるから捨てるよう厳命しています。

惣右衛門は真っ先に本能寺に入ったと述べていますから、緒戦は鉄砲の
音もない静かなものだったようです。

寝間着姿の近習衆と、切り結んでいる様が述べられていますので森乱ら
は寝ぼけ眼で戦闘に突入したとおもわれ、完全武装の斉藤勢に徐々に討
取られていったのでしょう。

この時点でも、惣右衛門は襲撃した相手が信長とは認識しておらず、他
の兵士も同様でした。

ただこれは緒戦であり、態勢を整えた近習衆が信長の周りに集まり、激し
い抵抗戦が展開された可能性は高いと思われますが、覚書はその様子を
伝えていません。