惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊹)

 
 

松永久秀、久通父子が、勝手に戦線を離脱したほぼ同時期に、はるか

北陸の地で、信長の許しを得ず勝手に前線を離れ、帰還した武将がい
ました。

信長公記」には

八月八日、柴田修理亮、大将トシテ、北国へ御人数出ダサレ侯。
滝川左近、羽柴筑前守、惟住五郎左衛門ーーーーーーーーーー
富樫ノ所々焼キ払ヒ、在陣ナリ。羽柴筑前、御届ヲモ申シ上ゲズ
、帰陣仕リ侯段、曲事ノ由、御逆鱗ナサレ、迷惑申サレ侯。

とあり、秀吉が届けも出さず勝手に陣を払い、居城長浜に帰還した事
が述べられています。

軍法に違反する行為であり、信長が激怒し又困り苦しんだとあります。
松永父子の戦線離脱は八月十七日でしたから、秀吉の行動に影響を
受けた部分があったかもしれません。

しかしその動機の根底にあるものは大きく相違し、秀吉の行為は、日
頃の信長から自分に対する信任の厚さを過信した、行き過ぎた行いで
あり、軍律違反で断罪されるべきものでした。

柴田勝家滝川一益とはそりが合わなかったのでしょう。我慢しきれな
い事があったと想像できますが、現在の会社人間的規範に照らし合わ
せても、かなりあやういことであつたと容易に推測できます。

結局信長はこの一件を不問に付します。織田家中の統制を考えれば
秀吉に切腹させるのが最善策ですが、可愛い猿を結局は許してしまい
ました。(明智資料㊴)

信長にはこのように恣意的な判断を下す事が多々あり、それが自分の
身を滅ぼす一つの要因になるのですが、そこが信長の魅力でもあるの
でしょう。

秀吉はこの後信貴山城攻めに参加し、その落城後の 十月廿三日
筑至播州出陣云々 と「兼見卿記」のなかにあるように、新戦場であ
播磨へ向かいます。

播磨攻めには秀吉が欠かせない存在であった、ともとれますが柴田勝
家らにとっては、九月に手取川の戦いで上杉謙信の追撃を受けて、多
大な損害をだしており、秀吉軍の戦線離脱による兵力不足によるものと
したら、両者の亀裂は大きいものになっていたでしょう。

急成長会社のワンマン社長は、統治システム構築が苦手といいますが、
信長はまさしくこの例にあてはまりました。

一枚岩であると思われた織田家臣団も、この頃から分国の拡大に伴い
綻びをみせはじめます。

光秀は、信貴山城が落城すると、丹波に向かい、籾井城を囲みます。
天正六年に入ると、本願寺の活動が活発化し、信長はその対応に追わ
れました。四月には光秀も攻撃に参加しています。

五月に入ると毛利勢は播磨に入り、上月城を囲みますが、織田軍は後
詰にあてる兵力がなく、城を放棄し、尼子勝久を見捨てました。

信長がこの時期かなり苦戦していたことがみてとれますが、北方の脅
威である上杉謙信が三月に死去し、上杉家の家督争いが勃発する事
でこの脅威が取り除かれました。

天正六年正月十一日、光秀は近江坂本城で茶会を催し、信長から拝
領した八角釜をお披露目した、と招かれた津田宗及は「宗及他会記」
の中に記しています。

まさしく忙中閑ありでした。



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