惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉚)

 
 
 
 

貢馬御覧は、その起源は古く、鎌倉時代には賀茂祭にあわせて、執権

が名馬を献上し、天皇の内覧後、摂関家等に下されています。

室町時代になると更に整備されており、守護大名から供出された馬を、
将軍が貢納し、天皇が御覧になってから、公家に配分されるようになっ
ており、十二月に開催されました。

これは、天皇ー公家ー将軍ー守護大名という、その時代の権力維持シ
ステムを反映した行事であり、貢馬御覧を開催する武家は、時の最高
権力者でありえました。

足利将軍家の没落とともに、この行事も衰退し、ほぼ百年間未開催の
状態が続いており、信長は馬揃えを開催し、そこに貢馬御覧の行事を
復活させることで、新たなる権力者の出現を、全国にアピールしていき
ます。

又貢馬御覧には経済的な側面があり、足利将軍家から天皇、朝廷に、
この行事にあわせて、翌年の朝廷行事が、すべてまかなえるほど
の資金援助がなされていました。

この行事を再現することで、天皇、朝廷は恒久的な財源確保を、信長は
最高権力者への道を駆け上がる目論見を実現することができました。

信長公記」はこう記しています。

一番 鬼蘆毛、右御先へ水おけ持、御のぼりさし。ひさく持、今若。
御くらかさね唐織物、同あおり、同前、雲形はこうのきんらんなり。
二番 小鹿毛。三番 大あし毛。四番 遠江鹿毛。五番 こひばり。
六番 かはらげ。

此の御馬と申すは、奥州津軽、日本まで、大名・小名によらず、是
れぞと申す名馬ーーーー

これらの名馬は、信長家臣団に名目的に編入された関東以北の武士
団から供出されたもので、まさしく将軍と守護の関係性の反映といえま
す。

信長と天皇は友好的関係のなかで、馬揃えに臨席しており、信長が軍
事的圧力をかけて、正親町天皇に譲位をせまった、との説には承服で
きませんが、天皇、朝廷の、信長の行動様式に対する理解不足から、そ
の後混乱が生じ、光秀、細川藤孝らは対応に苦慮します。
(光秀戦闘史Ⅱ⑥) 
 
 
蘆毛
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