惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉞)


 


元亀元年、光秀は信長上洛後まもなく、公家衆に対する家門、家領安堵作

業に従事します。

この作業は元奉公衆朝山日乗とともにおこなわれました。これらの作業は、
室町幕府初期に足利義満により、足利将軍が天皇上皇をコントロール
る手段として、天皇に仕える公家衆の所領安堵、給付を実質的に管理する
ことを目的に始められました。(四人の天下人㉔)(明智資料㉟)

しかし当時西国には、依然として強力な天皇、朝廷の権限が残っており、
応仁の乱等の戦乱を経ることで、幕府の権限低下が進み、戦国大名の出
現により、これらは混然としたものに変わっていきます。

将軍が公家衆の家領を、天皇が家門を安堵する、という相互の役割分担
は機能しなくなり、実情に応じて、時の権力者により、恣意的に行われま
した。

結局、足利将軍が天皇の臣下である公家衆の所領管理を行うことで、彼
らを支配下におく試みは、不完全なまま進行し信長の時代を迎えます。

経済のエキスパートである信長は、都を制圧するとすぐに、光秀に混然と
なっている公卿らの所領調査を命じます。

山科言継は所領一覧を提出していますが、反面不平も述べています。こ
の作業後、信長は押領された公家衆の所領を回復させることで、足利将
軍同様、彼らを支配下におく策動を開始しました。

信長は都制圧初期から、朝廷の完全支配をめざしており、それに成功し
たからこそ、一挙に織田領の拡大が可能だったといえます。

光秀が信長の朝廷政策に深くかかわり、一貫してその所領が都周辺にあ
ることでわかるように、信長の朝廷政策立案の、中心的人物のひとりで
あり、その領土拡大に貢献したことは間違いがありません。

天正七年、山科言経は父言継の死去にともない、信長のもとを訪れてい
ます。

前右府北向・阿茶丸等被罷向了、老父御逝去、然者家領無別儀之
由申之ーーーーーーー進物帯進之

正妻、子息をともない、家領承認をもとめたもので、進物を持参しており、
興味深いのは

其外近所女房衆ツマキ・小比丘尼ーーー帯進之

とあり、光秀正妻煕子の妹妻木が、これらの対応の任に信長側近とし
てあたっていることがわかり、光秀の公家衆との関係の深さを読み取る
ことができます。

柴田勝家羽柴秀吉が、比較的早く対朝廷工作から離れたのにくらべ
、光秀が馬揃え開催の時期においても、その任にあったのは、この種の
作業に精通していたからと思われます。