惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉘)

 
 
 
 

官を辞した信長と天皇、そして光秀が深く関った行事に、都での馬揃

えがありました。

天正八年、信長は長期にわたった、本願寺勢力との戦闘に終止符を
打ち、畿内全域をほぼ勢力圏に置き、天下統一を目前にします。

本願寺との講和には、正親町天皇誠仁親王近衛前久らが関ってお
り、織田側、本願寺側双方からの、朝廷に対する働きかけ以上に、天
皇、朝廷からの、双方に対する、主体的な講和勧告の色彩が強く見ら
れます。

朝廷はこれ以上の戦闘継続が、延暦寺同様、本願寺の致命的衰退を
招く、と危惧していた思えます。寺社の保護が朝廷のもつ名目的権威
であれば当然の役割であり、それが天皇、朝廷を保護していくものと
の認識だったのでしょう。

同年、信長が佐久間信盛を、本願寺との戦闘怠慢を理由に追放してい
ることをみれば、信長の真意は本願寺を徹底殲滅することにあったと
思われ、その不徹底さが信長自身の身を、滅ぼしていくこととなります。

信長はすでに天皇の権威には依存しておらず、独自の意思で本願寺
殲滅を決定できたでしょうが、恐らく佐久間信盛織田家旧来の重臣
たちは、繰り返される本願寺勢力に対する、大虐殺を避けたいとの思
いを強くもっていたのでしょう。

又かって、天皇、朝廷にとり本願寺勢力は重要な資金供給源であり、
そこを完全に断たれることを極力避けたい、との思いがあり、天皇
勅命講和へと動かしたと思われます。

この信長と本願寺との講和には、双方の意思以上に天皇、朝廷の思
惑が見え隠れしており、それは天皇、朝廷の経済的基盤確保の動き
からくるものでした。

天正九年の馬揃えはそうした動きと連動したものであり、信長、天皇
の思惑が大きく乖離した中で、光秀を奉行としてとりおこなわれました。
(光秀戦闘史Ⅱ⑤⑥⑦)