惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉙)

 
 
 

天正九年正月十五日、織田信長は、馬廻衆および江州衆に爆竹を用意

させ、自らは南蛮帽をかぶり、赤色の衣服を身にまとい、眉を書いて、小
姓衆を先頭にして、安土城内の馬場にはいりました。

馬場では爆竹に火をつけ、馬を駆けさせ、そのまま安土の町へ繰り出し
ていきます。見物人は群れをなし、賞賛したとあります。

この馬駆けには、織田一門の他に、近衛前久も参加していました。これ
が同年二月二十八日に、都で開催された馬揃えに結びついていきます。

前年、近衛前久は、信長と本願寺との講和交渉に尽力しており、信長と
前久は男色関係にあるのでは、と疑いがもたれるほどの蜜月関係にあ
りました。

前久はたびたび信長に所領の給付を無心しており、本願寺との交渉に
対する返礼要求は当然あったと推測されます。

これは近衛前久のみではなく、天皇、朝廷も同一次元にあり、信長に対
して資金供出を求めていたのでしょう。

ただ信長側としても、資金提供には名目が必要で、相互の利益が一致し
た一大イベントが馬揃えでした。

これは信長の天才的な思いつきが産み出したものであり、根底には、朝
廷内で古来より開催されていた、貢馬御覧があり、その復古にかこつけ
た、信長による対朝廷政策の仕上げとみなすことができます。