惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉙)

 
 
 
 

十五代将軍足利義昭にいたるまでの、足利氏の血脈を整理してみます。


銀閣寺建立で有名な八代将軍義政は、弟義視を継嗣とします。しかし嫡男義尚の誕生
で、正妻日野富子らの策動により、義視はその地位を追われましたが、義尚が早世し
ます。

富子は、自分の妹の子である、義視の子の義材を十代将軍に据えますが、明応の政変
により、義材は追放されます。(濃州余談㊴)

義政の弟で、堀越公方となっていた政知の子、義澄が十一代将軍となり、その子十二代
義晴、孫の十三代義輝、十五代義昭とこの流れが将軍に就任します。

しかし義材は、大内氏の庇護の下上洛し、義澄を追放し将軍職に復権し、義澄は将軍
に再び戻る事はありませんでした。

この義材や義澄、義晴が引き起こしたごたごたの数々は、ここには書きませんが、最終
的には、両陣営が和解したということでしょう。

その後、義澄の子である義維は、追放され復権した義材の養子となっており、平島公方
とよばれ、十四代将軍となった義栄はその子です。

義晴、義維は兄弟であり、義昭、義栄は従兄弟同士となります。このように堀越公方
流れが足利氏嫡流となっていくのですが、堀越公方は二代で消滅します。

足利義昭は義晴と近衛尚通の娘慶寿院のあいだに誕生しました。父義晴の生母は、身
分が低く、日野家から正妻を迎える通例を破り、自己の地位向上のため、義晴は五摂家
筆頭近衛家から、正妻を迎えたといいます。

足利義昭武家、公家ともに、その頂点にたつ家柄の出身でした。

将軍はこの期間、在京する事もできないことが多く、各地を転々とし、軍事力としての、
奉公衆は完全に崩壊していました。有力大名の意向により、その政策は決定され、義
晴の晩年になって、京都での本格的な政務が再開されています。




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