本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉚)
天文六年(1537年)十一月、足利義昭は、十ニ代将軍、足利義晴の次男とし
て誕生しました。
を継ぐことで、尚通の子稙家の猶子となり、興福寺一乗院門跡に入り、覚慶と
名乗ります。
を送っていましたが、永禄八年(1564年)五月、その人生は大きく変わります。
兄将軍義輝が、三好三人衆らに、二条邸御所を襲撃され殺害されます。同時
に実母慶寿院も自害に追い込まれ、更に、弟で、鹿苑寺院主である周高が殺
されます。(奉行衆・奉公衆㉖)
この時、義昭は一乗院に幽閉され、即時殺害を免れますが、その理由は定かで
ではありません。
義昭叔父、大覚寺義俊やその背後にある、越前朝倉氏の意向があったのかも
しれませんが、二ヵ月後義昭は奈良を脱出します。
はその後、義晴、義輝に繋がる幕臣が参集しました。
こうして義昭は、否応なしに政治の舞台に放り込まれ、義澄系統唯一の生き
義昭は、兄義輝同様、父義晴の幕府権力復興の強い意志を受け継ぎます。
その思いにうまく入り込み、都の政治を手中におさめたのが、信長とその片
腕である光秀でした。
一乗院門跡御教書