惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉞)

 
 
 

「細川家記」は、「綿考輯録」の別名であり、藤孝、忠興、忠利、光尚の

細川氏四代の業績をまとめたもので、安永七年(1778年)に完成しまし
た。

詳細な記述で完成度の高いものですが、藤孝、忠興に関する記述には、
信憑性を疑われる部分も多く、「明智軍記」からの引用もみられます。

最終的には、肥後藩が編集に介入しており、細川氏の正史的色合いも
あり、藤孝および細川氏に都合のいい記述になっています。

又、細川氏に都合の悪い部分は、当然削除されていると思われます。

光秀と、米田氏、沼田氏との交際は、永禄九年九月には存在している
ことが、不要になった手紙の裏面に書かれた、薬の調合書から確認で
きます。(明智資料㊽)

そこからは、藤孝と光秀の交際が、この時点ですでに、開始されている
可能性が高いことがわかります。

義昭の越前入国の一年以上前には、藤孝と光秀は出会っており、近江
田中城で、沼田清延らと政治的工作に携わっていた推測されます。

想像を逞しくすれば、光秀は、藤孝に付き添い、美濃、尾張へ赴き、信
長上洛への工作を、この時点ですでに、担当していたのではないかと思
われます。

なぜ光秀がこの役目を請負い、成功させることができたのか、光秀と時
衆の関係性を軸にして、見ていきたいと思います。



田中城跡
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