惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊱)

 
 
 

鎌倉時代末期から室町時代南北朝期は、全国で合戦が多発する

戦乱の時代でした。

寺社の束縛から離れ、各地を念仏行脚する時衆の僧たちは、転
戦する、足利氏等の軍団の中に身をおき、戦死した武士の極楽
往生を願い、弔いました。

彼らは、軍旅のなかで、武将と連帯感を形成し、本来の僧としての
役目だけではなく、負傷した武士の傷の手当てにもあたりました。

時衆僧の多くは医療技術者であり、特に薬草分野の専門家でした。

幕府二代将軍足利義詮は、時衆である昌阿弥を信頼し、彼以外
の治療を受けませんでした。

明智光秀は、近江田中城で、沼田勘解由左衛門に薬草の調合を
教示しています。

又、当時一流の医学者であった山科言継のもとに、調合した薬を
たびたびもらいにいっています。

光秀は、医学者の曲直瀬道三、施薬院全宗らとも深く交わり、私
は全宗の屋敷は、光秀の都での屋敷を、譲り受けたものではない
かと推測しています。(四人の天下人㊾)

薬院全宗は、比叡山菜樹院で僧になっており、延暦寺で医療に
従事する末僧には、時衆の僧が多かったことを考えれば、光秀と
全宗の接点は、このあたりにあったのかもしれません。

時衆僧は将軍のみではなく、天皇の侍医としても活躍しており、
清阿弥、久阿弥は後花園天皇の病気治療にあたっています。

時衆僧は、戦闘時における、陣僧的側面や、医療技術者としての
特性だけではなく、非戦闘時には、陣中において、息抜きとして
武将と連歌等の芸能に興じたといわれます。

光秀の連歌狂いの原点は、ここにあったのでしょうか。




時衆踊念仏
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