惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉟)

 
 
 
 

永禄九年九月以前、明智十兵衛尉光秀の名を、室町幕府関係、織田氏

係そして朝倉氏関係の一次史料の中で、見出すことはできません。

明智軍記」等の戦記、他家の家譜等に登場する光秀からは、その実在
を確認することはできません。

光秀の前半生を探る手がかりは少なく、各書物の中の、断片的な記載は
彼の存在を、更に謎めいたものにしていきます。

ただ、その断片的な記載のなかからも、ある一つの漢字が、彼の人生にお
ける行動と思想に、統一性を与えていることがわかります。

それは「時衆」です。

時衆とは、浄土教の一派で、開祖一遍は、新たなる宗門を作る意志はあり
ませんでしたが、江戸時代以降、幕府の宗教政策により、時衆諸派時宗
名に統一されました。

光秀の時代は、宗門、構成員ともに時衆と呼ばれていました。光秀自身が、
その前半生は時衆の僧であった、あるいはこの宗教集団と深くかかわる者
であった、と断定できる一次史料は存在しません。

しかし、彼の前半生部分の極端な欠落は、彼が出家しており、時衆として、
全国を念仏行脚していた、と考えれば理解でき、俗世界との乖離をもたら
している、と考えることができます。

光秀=時衆の構成員であるとの考えは、単なる私の推論にすぎません。

しかし、そこには、いくつかの彼の歴史との整合性がみられる事を、光秀
連歌や医術への傾倒のみではなく、越前時代における、時衆寺称念寺
との関係、あるいは時衆僧で構成された幕府内同朋衆との関りなどから、
みていきたいと思います。
 



頼病患者に施しを行う時衆(一遍上人絵伝
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