惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊳)

 
 
 
 

里村紹巴は、連歌を通じて、光秀と極めて親密な関係にありました。光秀

が、紹巴にあてた手紙の中にも、その絆の堅さを垣間見ることができ、紹
巴は、愛宕百韻開催時、光秀の信長謀殺を知りえる人物でした。
(光秀と朝廷・公家社会⑨)(続濃州余談⑤)

紹巴は、時衆一花堂乗阿等と交流が深く、彼の子孫からは、遊行四十八
代賦国が出ており、紹巴自身が時衆であった可能性があります。

天正八年、遊行三十一代同念が、開催した連歌会には、紹巴が参加して
おり、時衆と紹巴の関係の深さを知ることができます。

細川藤孝はこの同念に深く帰依しており、光秀、紹巴、藤孝の三者の関係
性の中に、時衆が色濃く関っていたことが推測できます。

明智氏の、連歌に対する傾倒は、光秀以前から知ることができます。そこ
に光秀が時衆と結びつく、原点があったのでは、と考えていくと、光秀が越
称念寺門前で過ごした、不遇時代が理解できます。すなわち光秀が時
衆のルートで、美濃から越前へ逃避したということですが、年代的な裏付
けが全く存在しません。(四人の天下人⑭)

いずれにせよ、愛宕百韻開催時、紹巴の参加のみではなく、そこに戦勝祈
願や家名存続を、嫡男光慶とともに祈願する、宗教的側面を、連歌の中に
光秀が内包したことは、彼と時衆との関係性を深く感じます。

すでに述べましたが、光秀と細川藤孝足利義昭側近との交流は、義昭の
越前入国の、一年前には存在していたことが、確認できます。 この時点で
の、光秀と織田氏との接点等を、時衆が持つ布教活動の特性から、見てい
こうと思います。(奉行衆・奉公衆㉜㉞)