惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊴)





明智軍記内に以下の記述があります。


永禄八年、光秀は、越前長崎称念寺の園阿上人と、加賀山城温泉へ
湯治の旅に出ました。

この旅には、称念寺の時衆や小僧の定阿弥が付き添いました。光秀
は、僧侶に冗談を言ったり、即興で詩作したりで、楽しい旅を送ったと
あります。

三国湊で一泊した光秀らは、連歌興行を行います。そこに三国浦の漁
師刀弥が来て、光秀に、越前から蝦夷松前までの寄港地と、その間
の距離を教示し、更に今度は、下関までの寄港地と、その距離を答え
て、光秀から褒美を与えられたとあります。

刀弥という人物は、名前から時衆関係者と推測できますが、一般人で
は知りえない地理情報を持っており、旅する時衆の片鱗を感じます。
光秀自身も、朝倉義景の家臣鳥居兵庫介に向かい、自身の経歴をこ
う述べたとあります。

弘治二年、美濃から、知り合いの僧がいた称念寺に移り、妻子を預け
置いて、加賀越中を抜け、越後で上杉謙信の有様を見聞し、その後、
会津葦名を始まりに、奥州の伊達、南部、下野の結城、常陸の佐竹、
甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川、尾張の織田、近江の佐々木
を訪ね、将軍義輝の様子を見て、和泉の三好、備前の宇喜多、出雲
の尼子、安芸の毛利らを訪ねたとあります。その後、薩摩の島津、土
佐の長宗我部を経て、海路で伊勢神宮に到着し、伊勢の北畠、長野
の館をみて、越前に六年ぶりに帰ったとあります。

これ以外にも明智軍記内の記述には、延々と太平記の一節を述べる
くだりもあり、江戸時代の歴史マニアを対象とした、教養軍記書の傾向
を強くにじませています。

江戸の庶民は、こういった書籍から教養を得ていたのでしょう。光秀が称
念寺門前に住んでいたことを記述した書物は、他に時衆三十一代同念上
人の遊行記があり、時衆関係の史料のなかに、当時の光秀の足跡が見
られます。



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