本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊲)
鎌倉時代、連歌は講と密接に関連し、宗教的側面を持って発展しました。
、全国に波及しました。
このように連歌には宗教的な意味合いがあり、参加者のなかには、僧侶
や僧体の芸能者が多く含まれていました。
南北朝期、時衆は、合戦において武将に相伴し、戦闘時には十念を唱え、
極楽浄土を願い、戦いの合間には、連歌会を催し、武将を慰めました。
特に、足利氏と時衆の関係は密接であり、戦時を離れても、将軍近く仕え
、取次ぎ、典医、芸能者としての役割を担い、同朋衆の原型となります。
が六名の時衆を、義満に仕えさせたことに始まります。
これらの時衆はすべて阿弥号を持ち、将軍義政時代には、能阿弥等が
あらわれ、東山文化の形成に貢献しました。
時衆には、一遍以来、和歌に才能を発揮する者が多く、遊行三十一代同
開催しています。
し、そこには里村紹巴が参加しています。
連歌は、武士以外の町衆にも、娯楽として定着していきましたが、光秀
の愛宕百韻にみられるように、戦勝祈願として、神前に供えられるもの
でもありました。
奉納連歌