惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊶)

 
 
 

遊行十一代自空上人は、尾張萱津光明寺住職を経て、康暦三年(1381年)

尾道常称寺にて、遊行を唯阿上人より相続しました。

自空は、戦場での時衆の活動について、掟を定め、その第一項にこう述べ
ています。

時衆が、武士に同伴して戦場に赴くのは、死者に十念を与える為であり、時
衆が、戦場において、敵味方の区別なく自由往来できるからといって、戦闘
に関する使い等を行ってはいけない。

しかし、実際には時衆は、同伴する武将の要求に応じて、相手方との連絡や
時には情報収集の役をはたしていました。

敵味方相互に時衆が従軍しており、戦死した武将の首級を返還する役目等
の為、彼らは戦場を自由に行き来し、敵方の領地にも赴きました。

一遍以来の遊行の伝統や、時衆の持つ性格、あるいは武士に時衆の信者
が多かった等の理由がそれを可能にしていました。

平時においても、こういった時衆の活動は、敵対する武将間の連絡に生かさ
れる事があり、領国間を比較的自由に往来し、宗教活動の他に連絡係として
の役目をはたしていました。

各上人の、全国への遊行の伝統が、それを可能にしていたとも言えるのです
が、将軍足利義持はその御教書にみられるように、時衆の領国間の移動を
円滑に行うよう、領国主に指示しています。

又、信長も、時衆が織田分国内を修行の為自由移動する事を許可しており、
戦国時代においても、時衆が、敵対する領国間を比較的自由に通行して、連
絡係りをしていたと推測できます。

光秀が、時衆となんらかの関係があるとすでに述べていますが、織田氏と足
利義昭とが接触する初期の段階から、光秀が時衆の持つ、ネットワークをい
かして、相互の連絡を、義昭側近の細川藤孝を介し、織田側と行っていたと
考えられます。(奉行衆・奉公衆㉞)