惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉒)

 

叡山に対する殲滅戦の完了後、光秀は志賀郡を拝領しました。しかし

坂本近隣を除いては、本願寺門徒、叡山系の土豪、浅井氏の勢力が
いまだ強い勢力を保持していました。

元亀三年三月、織田勢は浅井氏との戦闘を望みますが、浅井氏は応
じず、信長は軍を進め、和邇に本陣を構え、志賀郡の木戸城等を包囲
し、志賀郡の完全制圧をめざしました。

光秀、丹羽長秀らがその任にあたりました。七月に入ると、浅井氏との
戦闘は本格化し、光秀は、林与次左衛門、猪飼野甚介、馬場孫次郎ら
とともに、琵琶湖に軍船を浮かべ、海上から上陸し敵陣を焼き払い、竹
生島の敵方を船上から鉄砲で攻撃しています。

海賊のような光秀の水軍を使った攻撃形態はその後もみられ、足利義
昭が、信長との軍事対決を明確化し、近江堅田の渡邊党らが兵を挙げ
た際には、光秀は、海上から軍船で近づき、上陸後城を落しています。

光秀が、水軍の運用に長けていたことがわかります。

これをもって、志賀郡における光秀の敵対勢力は完全に駆逐され、光
秀の坂本領支配が開始されます。

天正元年四月二十八日に、光秀は船大工三郎左衛門にその忠節に対
し、諸役、地子を免除する旨の文書を発給しています。軍船建造に光秀
が注力していたことがわかります。

諸情勢が安定してきて、気持ちに余裕ができたのか、光秀は坂本西教
寺に、霊供料を寄進し、堅田攻めで戦死した家臣の供養を行っています。

坂本城の本丸は湖岸に沿って建築されており、山側に向かい二重に堀
がもうけられ、四方を水に囲まれた水城でありました。

天正六年一月の「天王寺屋会記」によると、津田宗及は城内から直接船
に乗り込み、安土城に向かったとの記述があり、水を防禦線とし、水軍を
支配下において、琵琶湖の海上利権を握った光秀の姿をみてとれます。


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