本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㊴)
天文二十一年(1552年)、誠仁親王は正親町天皇の第一皇子として誕
生します。
受けており、当時の朝廷・公家社会の歌壇をリードする存在でした。
り、文学に秀で、仏教に対して信仰心が篤い人柄でした。
深く信頼し、親王もまた朝廷の実際の運営者として、信長の期待に応
えています。
いくのですが、天皇と信長の間の意思疎通は円滑ではなく、相互の思
惑の食い違いから、譲位は延び延びになっていきます。
なかったことを考えれば、信長側から譲位を希望することはなく、まし
て天皇退位へ軍事的圧力をかけることなど考えられず、信長にとって
は誰が天皇であろうとすでに重要な問題でなかったと思われます。
のでした。
にしており、その脇には和仁親王ら孫たちが同伴していました。
そこには三世代の楽しい会話があったに違いなく、天正十年一月十日、
孫和仁親王に、硯と文題を与えています。
は聖護院、飛鳥井雅教、雅敦、勧修寺晴豊、広橋兼勝らが参加してい
ます。
光秀と密接な関係のあった聖護院も参加していますが、光秀と誠仁親
史料は、現在見出すことはできません。
り、和歌の才能のない兼見は、神事があるからと断りを上奏しています。
里村紹巴、聖護院と光秀の関係を考えれば、誠仁親王と光秀のあいだ
になんらかの交流があってもいいのでは思うのですが、恐らくは文学的
交流も含めて疎遠な間柄だったのでしょう。
り、これをみても光秀の対策不備がみられ、連絡不能な関係であること
がわかります。
しかし、禁裏にむかい裸足で逃げる親王や女房の為、その路中で紹巴
が輿を用意して待っていたのを考えれば、紹巴にはこうなる予感があっ
たのでしょう。
には、摂家を含めて朝廷全体の連動した謀議と考えてみても、光秀と
の接点は見出せず、信長を殺す理由もまた存在しませんでした。