惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㊴)

 
 
 

天文二十一年(1552年)、誠仁親王正親町天皇の第一皇子として誕

生します。

永禄十一年(1568年)、織田信長からの資金援助により、親王宣下
受けており、当時の朝廷・公家社会の歌壇をリードする存在でした。

正親町天皇と異なり、祖父後奈良天皇の性格を色濃く引き継いでお
り、文学に秀で、仏教に対して信仰心が篤い人柄でした。

信長は、駆け引き上手な天皇よりも、実直で武人的傾向がある親王
深く信頼し、親王もまた朝廷の実際の運営者として、信長の期待に応
えています。

天正七年、親王は禁裏より二条新御所に移り、譲位の段取りは整って
いくのですが、天皇と信長の間の意思疎通は円滑ではなく、相互の思
惑の食い違いから、譲位は延び延びになっていきます。

譲位は天皇の専権事項であり、徳川幕府でさえ、その点には踏み込ま
なかったことを考えれば、信長側から譲位を希望することはなく、まし
天皇退位へ軍事的圧力をかけることなど考えられず、信長にとって
は誰が天皇であろうとすでに重要な問題でなかったと思われます。

織田家中では、誠仁親王は今上帝と呼ばれており、すでに天皇そのも
のでした。

二条新御所に移った親王は、たびたび禁裏を訪問して天皇と時間を共
にしており、その脇には和仁親王ら孫たちが同伴していました。

そこには三世代の楽しい会話があったに違いなく、天正十年一月十日、
祖父正親町天皇は十四日に開催される御会始用の為、父誠仁親王
和仁親王に、硯と文題を与えています。

誠仁親王は和歌に通じ、連歌会をたびたび開催し、この御歌之御会に
聖護院、飛鳥井雅教、雅敦、勧修寺晴豊、広橋兼勝らが参加してい
ます。

光秀と密接な関係のあった聖護院も参加していますが、光秀と誠仁親
王の、本能寺の変以前の関係性が記された連歌会等を記録した一次
は、現在見出すことはできません。

興味深いのは、この天正十年の御会始には、吉田兼見も招聘されてお
り、和歌の才能のない兼見は、神事があるからと断りを上奏しています。

里村紹巴、聖護院と光秀の関係を考えれば、誠仁親王と光秀のあいだ
なんらかの交流があってもいいのでは思うのですが、恐らくは文学的
交流も含めて疎遠な間柄だったのでしょう。

織田信忠が、防戦の為に妙覚寺から二条新御所に移動した時、御所に
入した明智軍の為、親王や女房衆、小者は裸足のまま逃げ惑ってお
り、これをみても光秀の対策不備がみられ、連絡不能な関係であること
がわかります。

しかし、禁裏にむかい裸足で逃げる親王や女房の為、その路中で紹巴
が輿を用意して待っていたのを考えれば、紹巴にはこうなる予感があっ
たのでしょう。

光秀の信長謀殺の黒幕筆頭にあげられる、正親町天皇誠仁親王親子
は、摂家を含めて朝廷全体の連動した謀議と考えてみても、光秀と
の接点は見出せず、信長を殺す理由もまた存在しませんでした。