惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代㉓)


足利将軍とその直臣の関係性は、「御恩」と「奉公」の上に成り立ち

、直臣は将軍の直轄地である御料所を預かり、そこから収入を得て
いました。

そこに、幕府直臣を奉公衆という由来があります。細川藤孝はその
奉公衆の指導者である、御供衆でありました。

しかし、この時代幕府は弱体化し、15代将軍足利義昭は、信長の支
援を受けて上洛し、信長の許可のもと、空白となった都周辺の土地を
奉公衆に与え、その権力強化を図ります。そして独自の政権構想を持
つ義昭は信長との対立を次第に深めていきます。

信長と義昭の対立が激化する中、藤孝は義昭を見限り、信長のもとへ
走ります。藤孝らしい冷静な判断力による行動でした。

信長はそれに対して

今度被対信長、被抽忠節侯、誠神妙至侯、仍城州之内限桂川西地之
事、一職申談侯、全領知不可有相違之状如件、

と藤孝に桂川西岸の土地を与えます。

領地らしいもの持たなかった藤孝が、長い流浪の生活の末に得た、所
領でありました。

藤孝にとり、奉公する対象が信長となったのです。その後、丹後南半国
の一職支配をまかされ、その所領は飛躍的に増大します。

本能寺の変後、藤孝が中立的立場を取った理由には、信長の御恩に対
する感謝の気持ちと、安易に動いて、獲得した所領を失いたくないという
気持ちがあったと思われます。

変後、丹波北半国の領主、一色五朗を謀殺し、丹後全国を支配下におい
た藤孝、忠興親子の領土拡大欲には強烈なものがありました。

光秀も足利将軍家にかかわりのある者であり、その意識内部には、信長
の御恩に対する、感謝の気持ちは当然あったでしょう。

光秀と信長の間の、御恩と奉公の関係を崩壊させる何かが、この二人の
あいだに起こったのでしょうか


将軍邸内の大名、御供衆(無帽) 門外は奉公衆と大名家臣
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